2013年1月4日金曜日

年越しも休めなかった、福島第一原発収束作業員のKさんの文章です。 NPO法人チェルノブイリへのかけはし. http://www.facebook.com/npokakehashi/posts/455668991149151 ↓ 総選挙の総括と分析で、まだしばらくは討論が続いていくものと思われます。その中でみなさんに少しだけでも考えていただきたいな、と思いますことを綴ります。 私たち収束作業員で県外から来ている収束作業員のほとんどは、人事院通達で「支払うべきこと」と規定されている出張旅費を支給されておりません。また、作業のシフトの関係で、たとえ帰省旅費が人事院通達通り正当に支給されたとしても選挙権を行使することなどできません。私達がシフトを抜けるということは、事故の再発を意味するからです。 帰省旅費を通達通りに支給する会社は御用組合電力総連や電機連合に「加入できる」ほんの一握りの元請企業の社員に対してだけで、ほとんどの作業員は帰省するお金などないのが現状です。2012年12月8日朝日新聞夕刊に報道されている通り、「投票」という権利が実質上奪われているのです。 そもそもが「選挙権を行使する」という社会参加の枠組みから排除されている人々が収束作業に従事しているのです。「日本人」ではないが故に「選挙権」から排除されていたり、下層労働者故に選挙権が実質的に剥奪されている人も周囲にたくさんおります。 収束作業は、世の中が選挙であろうとなかろうと地道に、「市民」が知らないような場面で展開されています。私は2011年から2012年の年明けはJビレッジで完全装備を着用後、「復興」されることなく放置されたままガタガタの悪路と化した国道六号線の大熊町内で、域外持ち出し不可=汚染車輌であるイチエフ往復専用通勤車両の中にて迎えました。 私たちはお互いに「あけおめー」と言い合いました。しかし全面マスクを着用しているので相互の声は「モゴモゴ」としか聴きとることはできません。全面マスクで発する自分の声は減衰しますし、暴露防止のためタイベックに密着するよう全面マスクをテーピングしているので周囲の音も遮断されているのです。悠長に「あけましておめでとうございます」などという「おしとやかなご挨拶」はお互いに聴き取ることはできません。 「あけおめー」というお互いの存在を伝え合うなるべく短い造語、それは年末年始のシフトでも働かなくてはならない自分たちの不安をかき消すために発した言葉でもあります。収束作業に従事する人員が通常よりも少なくなる年末年始のシフトにて、「何かあった時」はイチエフの現場に踏みとどまらなくてはならない「人柱」としての役割が課せられていることを意味していることを自覚しているからなのです。越年をイチエフで迎えるにしても特段の配慮など一切ありませんでした。賃金も特別な手当てなど一切支給されておりません。 私たちは通常、往復の通勤で15μSvの被曝に晒されます。Jビレからの「通勤」自体が「市民的日常」とは別世界のものなのです。 「原発作業員の母」である木田さんの息子さんはつい最近まで「東京電力逆出向社員」でした。一般社会の「出向」は親会社から子会社・関係会社へのものが通常なのでしょうが、東電逆出向のシステムは全然別物です。下請け会社から元請会社を一足飛びで抜いて「東電社員」といして扱われる「制度」です。下請会社無保証・低賃金の体系のまま、身分上だけ「東京電力社員」となります。端的に言えば「制服だけは東電社員」という身分です。なぜこのようなシステムになるのか。端的に謂えば市民社会が「東京電力社員の犠牲者」を要求しているからです。東京電力社員は収束作業のなかでも危険なに従事しろ、という要求は「東電社員ならば死んでもよし」という社会的な懲罰を欲しています。その余級の策として「危険被爆労働専門作業員」としての逆出向制度が存在するのです。 わたしたち市民社会は、「自分ではない誰か」を犠牲者として差し出すシステムをこそ問わねばなりません。そしてその犠として供される者とは「市民社会」から排除された人々です。「日本人」や「市民」、そして「選挙権」から排除されている人々がイチエフの事故収束作業に多数従事していることを知っていただきたいのです。年末年始を故郷で過ごすための旅費を支給されないために帰ることもできず、また、シフトから抜けることを「市民社会の要求」の帰結として許されざることであることをも認識していただきたい、と切に願うものです。今回の越年は、イチエフで迎えるシフトでは「たまたま」ありません。極端に人員が減るこの一夜、無事に仲間たちが過ごしてくれますよう「存在するはずのない神」に祈るものです。「緊急事態」が発生しませんように。私は「何事かある場合」に備え、待機いたします。 Übersetzung anzeigen

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