2013年2月4日月曜日

第2節 チェルノブイリ事故の住民の健康への影響. 方法上の問題点. アレクセイ・V・ヤブロコフ. http://chernobyl25.blogspot.de/2012/04/blog-post.html 【要旨】 チェルノブイリ事故の影響の十分な評価を複雑かつ厄介なものにした問題には、大惨事発生当初から3年半にわたって、ソビエト政府が診療録の隠蔽や改ざんを行ったことや、ウクライナ、ベラルーシ、およびロシアに、信頼できる医療統計が存在しなかったことなどが含まれる。放射性物質の放出を制御するために事故処理にあたった数十万人の作業従事者(チェルノブイリのリクビダートル)に関する公式データの復元は、とりわけ困難だ。国際原子力機関(IAEA)、世界保健機関(WHO)、および、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)が要求する判定基準を用いた結果、チェルノブイリの放射性降下物に被曝した人びとにおける死者数や、病患の範囲および程度が著しく過小評価された。被曝データは、そもそも存在しないか、もしくは非常に不十分であり、その一方で、被曝がもたらす多くの有害作用の兆候がますます明らかになって来た。影響を被った地域で科学者が集めた客観的情報――自然地理学的、人口統計学的、経済的条件が等しく、放射性物質による汚染レベルとスペクトルのみが異なる複数の汚染地域における罹病率および死亡率の比較――によって、(たとえば、安定した染色体異常のように)年齢や性別に関わらず被曝と関連づけられる重大な異常や、その他の遺伝的・非遺伝的病理が判明した。  チェルノブイリの炉心溶融(メルトダウン)が健康状態に及ぼす壊滅的な影響についての最初の公式予測は、事故後の数十年間にガンの症例数がほんのわずか増加すると述べただけだった。しかし同じ当局は、チェルノブイリ事故によって生じた甲状腺ガン患者がすでに1,000人に上っていた4年後に、予測されるガン症例数を数百件に引き上げた(Il'in et al.,1990)。大惨事から20年後のチェルノブイリ・フォーラム(2006年)での公式見解では、関連死者数は約9,000人、また大惨事を原因とする何らかの疾患をもつ人の数は20万人程度とされた。  より正確な推定では、4億人近くがチェルノブイリ由来の放射性降下物に被曝し、被曝者およびその子孫は何世代にもわたって破滅的な影響に苦しむことが予測される。地球規模でみると、人びとの健康に対する有害作用については、遠く将来まで継続する特別な調査が必要だろう。本書の検討は旧ソビエト連邦のヨーロッパ側諸国(おもにウクライナ、ベラルーシ、ヨーロッパ側ロシア)の国民の健康に関するもので、これについては膨大な数の科学論文が発表されているが、西側世界(訳注1)ではほとんど知られていない。  本書の目的は、チェルノブイリの悲惨な影響について、利用可能なすべての事実の完全な分析を提示することではなく、――すべてを分析するにはきちんとした学術論文が数多く必要だろう――むしろ、知られている限りにおいて、その影響の規模と範囲を明らかにすることにある。 2.1 大惨事の影響に関する客観的妥当性の高いデータ入手の困難.  データを収集する側の問題とデータそのものが持つ問題の両方の理由により、チェルノブイリ事故が人びとの健康に及ぼした影響の完全な実像を描くことはたいへん困難である。  データを収集する側の問題には以下のようなものがある。 1. メルトダウンに続く数日間のチェルノブイリにおける住民の健康に関するデータに対して、ソ連政府は機密厳守を課し、1989年5月23日に公表禁止が解かれるまで3年以上も隠蔽し続けた。この3年のあいだに、何人とも知れない人びとが早期白血症で亡くなった。 隠蔽体制はソビエト連邦に限らず、フランスや英国をはじめ他の国々でも、米国においてさえ当たり前だった。爆発後、フランス放射線防護中央局(SCPRI)は放射性物質を含んだ雲がフランス上空を通過したことを否定し(CRIIRAD、2002)、米国農務省は1987年と1988年に米国に輸入された食品からチェルノブイリの放射性核種が危険なレベルで検出されていた件についての公表を怠った。これらの食品汚染に関して初めて公式に発表されたのは8年後だった(RADNET, 2008, Sect.6 and Sect 9, part 4)。 2. ソ連政府による、大惨事後3年半の医療統計の復元不可能かつ意図的な改ざん。 3. 数十万人の汚染地域からの避難者の健康データを含めて信頼に足る医療統計が、ソ連において不足し、また1991年のソ連崩壊後にはウクライナやベラルーシ、ロシアでも不足していること。 4. 国内および国際的な公的機関ならびに原子力産業界の、大惨事の影響を小さく見せようというあからさまな欲求。  総数にして80万人を超えるリクビダートル(第1章を参照)の場合がその最たるものである。大惨事直後の数年間は、リクビダートルが苦しめられている疾患を放射能に関連づけることは公式に禁じられていた。そのため、1989年までに、かれらの罹病データは復元のしようがないまでに偽造された。 チェルノブイリの原発事故に関する公式登録簿には近年でも被害者が新たに記録され続けており、記録の完全さと正確さには疑いを投げかけざるをえない。死亡率およびガンの発生率に関するデータは多くの異なる情報源から収集され、標準的な国際指針を考慮せずにコード化されている。………(そのために)チェルノブイリ事故に関連する住民の健康データを公的な医療統計と比較するのが困難である(UNSCEAR,2000, Item 242, p.49)。 リクビダートルの罹病データ改ざんに関する公式の要請例 . 1.  「………電離放射線に被曝したあと入院措置を受けたが、退院時に急性放射線障害の徴候もしくは症状がないと特定された個人に対しては、「自律神経循環器系失調症」(訳注2)という診断を下すこと」[ソ連公共保健第一次官、O・シェーピンがウクライナ保健省に宛てた1986年5月21日付け書簡より #02-6/83-6 (V. Boreiko, 1996, pp. 123-124)]。 2.  「緊急作業に携わった作業員のうち、急性放射線障害の徴候や症状を示さなかった者には「自律神経循環器系失調症」の診断を下し、放射線に関連するような健康状態の変化はないものとみなす(つまり放射線障害については実際上問題なしとする)。したがって、状況神経症を含む体性神経症状(訳注3)は診断から排除しなくてよい」[ソ連保健省第三局長、E・シュリジェンコの1987年1月4日付け電報より #"02 DSP"-1(L. Kovalevskaya, 1995年、p.189)]。 3.  「(1)電離放射線に被曝してから時間が経過した後に表れる影響および因果関係として考慮する必要があるのは、50ラド(500ミリシーベルト)(訳注4)を超える被曝後5年から10年後にみられる白血病および白血症である。(2)事故処理に従事し、ARS(急性放射線障害)のみられなかった個人において急性身体疾患および慢性疾患の表出が認められた場合には、電離放射線の影響を原因の一つと見なすべきではない。(3)チェルノブイリ原発で作業に従事し、別稿10番に記載されている(訳注5)急性放射線障害を発症しなかった個人に対して病気証明を発行する際、その人物が事故処理に参加したことについて、また、被曝線量総計が放射線障害を引き起こすレベルに達していない場合は被曝線量について言及しないこと」[第10軍医委員会委員長、V・バクシュートフから陸軍軍人登録および徴募事務所に宛てた、1987年7月8日付けのソビエト連邦国防省中央軍医委員会の説明文#205より(L. Kovalevskaya, 1995, p.12)]。  ロシア、ウクライナ、ベラルーシにおける公式のリクビダートル登録のデータは、「リクビダートル」という社会的地位が著しく特別扱いされたため、信頼に足るものとはみなせない。「リクビダートル」と記述された個人が実際に直接被曝したかどうかわからず、また事故現場にごく短時間しかいなかった人の数がどのぐらい含まれているかもわからない。同時に、現場で作業にあたったが、公式登録に含まれていないリクビダートルが、最近になって名乗り出ている。そのなかにチェルノブイリの事故処理に携わったが、参加を裏付ける書類が欠けている軍人たちがいる(Mityunin, 2005)。たとえば、チェルノブイリゾーン(強制避難区域)の事故処理作業に参加し、調査の対象となった6万人近くの軍人のうち、当時の「基準値」である25レントゲン(250ミリシーベルト)(訳注6)を超えたとの注意書きが軍の身分証明書にあった者はたったの一人もいなかった。同時に、ウクライナ軍の男性事故処理作業員1,100人を対象とした検査において、その37%が臨床上および血液検査上、放射線障害の特徴を示しており、これは25レントゲンを超える被曝を意味している(Kharchenko et al, 2001)。大惨事の15年後に、ロシア人リクビダートルの30%もの公的な証書に被曝量データが記載されていなかったことは、偶然ではない(Zubovsky and Smirnova, 2000)。  「チェルノブイリゾーンにおいて十分な線量管理が実施できるようになったのは数ヵ月経ってから」というのはよく知られているところである(Gerasimova et al., 2001)。慣例的に用いられていたのは、いわゆる「集団線量測定」や「集団線量評価」だった。医薬情報担当官さえも、多くのロシア人リクビダートルが、ロシア公式登録簿に明記された標準値である25センチグレイ(250ミリシーベルト)の7倍もの線量を被曝をした可能性を認めている(Il'in et al., 1995) 。公式データに基づいた場合、上記の証拠から、リクビダートルの「公式」被曝線量と疾病の相関は従来言われてきたようには求められず、信頼に足るものとみなせない。 大惨事の影響に関する真実のデータ隠蔽の二つの例. 1.  「(4) 事故の情報を機密扱いにすること..... (8)治療の結果に関する情報を機密扱いにすること。(9)チェルノブイリ原発事故の後処理清掃作業に携わった個人について、放射能の影響の程度に関する情報を機密扱いにすること」[ソ連保健省第三局局長、E・シュリジェンコによる、チェルノブイリ原発における原子力事故の後処理作業活動をめぐる機密の強化に関する1986年6月27日付けの命令、#U-2617-Sより(L.Kovalevskaya, 1995, p.188)。 2.  「(2)事故に関連して、医療機関に蓄積された診療録に関するデータは「限定公開」扱いにすべきである。また、物や環境(食品を含む)の最大許容濃度を超える放射能汚染について、地域および地方自治体の衛生管理機関において概括されたデータは「機密扱い」とする[1986年5月18日付けのウクライナ保健相、A・ロマネンコによる機密強化に関する命令、#30-Sより(N. バラノフスカによる引用、1996, p.139)]。    個別のバイオドシメトリ法(訳注7)(染色体異常数および電子スピン共鳴 [EPR]ドシメトリによる)によって得たデータの比較は、公式に記録された放射線量が過大評価もしくは過小評価されている可能性があることを示した(Elyseeva, 1991; Vinnykov et al., 2002; Maznik et al., 2003; Chumak, 2006; 他)。チェルノブイリ関連書では、1986年から1987年にかけて作業に従事した数万人のチェルノブイリのリクビダートルが、110ミリシーベルトから130ミリシーベルトのレベルで被曝したことが広く認められている。平均値とは桁違いの線量の被曝をした可能性がある人(および集団)もいた。以上のように、厳密な方法論的観点からみると、リクビダートルにおける病気と公式に記録された被曝レベルの相関を証明することが不可能なのは明らかだ。ウクライナにおける甲状腺被曝線量および線量証明書の公式データは何度も修正されている(Burlak et al., 2006)。  これまでに言及したデータ収集側の問題に加え、大惨事が住民の健康に与えた影響の真の規模を確証する難しさには、データそのものに関するおもな問題が少なくとも二つ寄与している。一つめの障壁は、個人もしくは住民集団への本当の放射能の影響を判定するにあたって、それを困難にする以下の要因が存在することである。 ・ 大惨事に続く数日間、数週間、数ヵ月間に放出された放射性核種の放射線量を復元する難しさ。ヨウ素133(I-133)、ヨウ素135(I-135)、テルル132(Te-132)などの放射性同位体、および半減期の短い他の多くの放射性核種の当初のレベルは、後にセシウム137(Cs-137)のレベルが計測されたときより数百倍から数千倍高かった(詳細は第1章を参照)。不安定型(訳注8)および安定型染色体異常(訳注9)の割合は、計測被曝量が正確だと仮定した場合に予測されるものよりずっと高く、最大で一桁か二桁も違うことを多くの研究が明らかにした(Pflugbeil and Schmitz-Feuerhake, 2006)。 ・ それぞれ固有の物理的および化学的特性をもつために、個々の放射性核種の「ホットパーティクル」(放射性微粒子)の影響を計算することの難しさ。 ・ 「線量」は実際に測定されたものではなく、不確かな推定に基づいた計算であることからくる、平均的個人および/もしくは集団における外部放射線被曝・内部放射線被曝のレベルを決定する難しさ。これらの推定値には「平均的な」個人による標準食品群の平均的な消費や、それぞれの放射性核種の外部被曝の平均レベルが含まれた。たとえば、ベラルーシにおける甲状腺被曝のすべての公的な計算は、1986年5月から6月にかけて13万人に満たない人びと、すなわち全人口の1.3%のみに対して実施された約20万件の測定に基づいていた。数百万人のベラルーシ人の内部被曝に対するすべての計算は、牛乳と野菜の消費に関する、数千人を対象にした非公式の調査に基づいてなされた(Borysevich and Poplyko, 2006)。そのようなデータをもとに、実際の被曝線量を再現することはできない。 ・ 放射性核種の不均一な分布(それぞれの核種の詳細については第1章を参照)の影響を判定する困難と、その結果として、それぞれの個人の被曝線量がその地域の「平均的な」被曝線量よりも高くなったり低くなったりする可能性が高いこと。 ・ ある地域における複数の放射性核種のすべてを把握することの難しさ。セシウム137のみに汚染されたとみなされている地域はストロンチウム90(Sr-90)、プルトニウム(Pu)およびアメリシウム(Am)にも汚染されている可能性がある。たとえば、ストロンチウム90の汚染のみにより公式の放射線値が規定されたゴメリ、モギリョフおよびブレスト各州(ベラルーシ)の6つの地区の206件の母乳サンプルからは、高レベルのセシウム137も検出された(Zubovich et al., 1998)。 ・ 土壌から食物連鎖に至るまでの放射性核種の移行や、それぞれの動物種および植物品種の汚染レベルを把握する難しさ。異なる土壌の種類、季節および気候的条件のほかに、年ごとの違いについても同様の難しさがある(詳細は本書第3部を参照)。 ・ 汚染地域から転出した個人の健康状態について判断する難しさ。ベラルーシのみの1986年から2000年までの期間における不完全な公式データについてだけでも、150万人近くの市民(人口の15%)が住まいを替えたという現実がある。1990年以降2000年までに、67万5,000人以上、すなわち国民の約7%がベラルーシをあとにした(ベラルーシ公式報告書 2006)。  個人および/もしくは集団に対する放射線の真の影響を解明する上で立ちはだかる二つめのデータに関する障壁は、情報が不十分であること、とりわけ以下に関する調査が不完全なことである。 ・ 特定の生命体にそれぞれの放射性核種が及ぼす影響の特性、またそれらが環境中の他の要因と合わさってもたらす影響。 ・ 集団および個人の放射線への感受性のばらつき(Yablokov, 1998; and others) ・ きわめて低い放射線量の影響 (Petkau, 1980;Graeub, 1992;Burlakova,1995;ECRR,2003) ・ 体内へ取り込まれた放射能の影響 (Bandazhevsky et al.,1995; Bandazhevsky,2000)  こうした点から、国際原子力機関(IAEA)、世界保健機関(WHO)、放射線被曝に関する国連科学委員会(UNSCEAR)、および原子力産業に関係する類似の公的国立機関の要求が科学的虚偽であることが露呈する。これらの機関は、チェルノブイリの放射能汚染の結果として、健康被害と(被曝と)の関連を認めるには「被曝レベルとその影響」とのあいだに明らかな相関がなければならないとしている。不明確に定義づけられた個人もしくは集団の電離放射線被曝のレベルを、それよりもはるかに正確に解明された健康への影響(罹病率や死亡率の上昇)と 結びつけ、「統計学的に有意な相関」をチェルノブイリの有害な影響の明確な証拠として要求することは、方法論的に正しくない。計算された放射線量が、明らかに被曝によると見られる健康への影響とは相関しない、ますます多くの症例が明らかになっている(IFECA,1995;Vorob'iev and Shklovsky-Kodry, 1996; Adamovich et al., 1998;Drozd, 2002;Lyubchenko, ; kornev et al., 2004; Igumnov et al., 2004;and others)。放射線の影響の判定は、これまでに述べたさまざまな要因から困難であるが、それは放射線の影響が存在しないことを証明するのではなく、IAEA、 WHO、およびUNSCEARの公式手段が、方法論的に不正確であることを明らかにしている。 2.2.「科学的プロトコル」  チェルノブイリ・フォーラム(2006)でもみられたように、ロシア、ウクライナ、およびベラルーシにおいて収集された、チェルノブイリ大惨事が住民の健康に与えた影響に関する膨大なデータを考慮するにあたり、これらのデータは西側の科学界の基準である「科学的プロトコル(手順)」を遵守せずに収集された、という反論がよくなされる。たいていの場合、得られたデータの統計処理が行われていないとか、重度に汚染された地域と、より汚染度の低い地域の集団間、もしくは異なる放射線量の地域の集団間で比較したパラメータに有意差や信頼区間(訳注10)が示されていないなどと言われてきた。しかし、影響が明らかになるのに十分な期間である過去10年間に情報が蓄積されるにつれて、多くの数値は真の「統計的有意」の範囲にあることがわかった。  本書の著者の一人は、生物学資料の統計処理に豊富な経験をもつ。『ほ乳類の変異性(Vairability of Mammals)』(Yablokov,1974)という概説書は、さまざまな生物学的パラメータおよび比較の数千に及ぶデータ計算を含む。『集団表体型学入門(Introduction into Population Phenetics)』(Yablokov and Larina, 1985)、および『集団生物学(Population Biology)』(Yablokov, 1987)という他の概説書においても、生物学的特徴のさまざまな類型について信頼に値する統計的に有意な結論を得るために、方法論的アプローチが分析されている。以上の総括や、生物学的/疫学的データの統計処理に関するその他の要因から4つの立場を明確に述べることができる。 1.  「スチューデントのt検定」による有意差の検出は非常に少ないサンプルの比較のために100年ほど前に考えだされたもので、多くのサンプルの比較には適していない。サンプルの大きさが集団全体に匹敵する場合、平均値は十分に正確なパラメータとなる。多くのチェルノブイリの疫学調査は数千人の患者のデータを含む。そのような場合、平均値は比較したサンプル間における真の差異を高い信頼性を持って示す。 2. 何倍もの差異がある平均値においては、差異の信頼性を判断するにあたって「標準誤差」を計算する必要はない。たとえば、1987年と1997年のリクビダートルの罹病率の平均値に10倍の差がある場合、なぜ形式的な「差異の有意性」を計算する必要があるだろうか。 3. なんらかの数値に影響を与える要因群の全貌がわからない以上、個別の要因の「影響力」を明確に規定する必要はない。原子力関連組織の科学者は、著者の一人(A.Y.)を、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの有名な証言録『チェルノブイリの祈り』(訳注11)を科学論文の中で引用したという理由で排斥した。アレクシエーヴィチ女史は、チェルノブイリのある村に住む、母乳の出る70歳の女性を診察する一人の医者について書いている。その後、正しい根拠に基づいた科学論文により、年配女性の母乳分泌の原因であるプロラクチンホルモンの異常分泌と被曝のあいだに関連があることが報告された。 4.  大きなデータ群における個々の特殊な特徴についての症例分析が平均値の算出になじまなければ、確率法を使う必要がある。いくつかの近年の疫学文献においては「症例対照研究」(訳注12)がよく使われているが、過去に発表されたデータをもとに非常に珍しい症例一群の確率を算出することも可能である。科学研究の方法は常に改良されていくと予想され、たとえば「信頼区間」や「症例対照」を使った今日の「科学的プロトコル」も完璧ではない。  歴史上の大惨事の影響を分析し、放射能に汚染された地域で何千人もの専門家が収集した膨大なデータベースを使用することは、一部のデータが西側の科学的プロトコルの形式を取るものでなくても正しいことであり、社会全体に対して正当化される。事後に他のデータを収集することが不可能だった以上、このデータベースを使用すべきである。このようなデータを集めた医師や科学者らは、第一に犠牲者を救済しようとしたのであり、第二には時間や資金が不足していたため、研究結果をいつも発表できたわけではなかった。ベラルーシ、ウクライナおよびロシアにおけるチェルノブイリの問題に関する医学/疫学会議の多くが、公式に「科学的かつ実践的な」会議と呼ばれていたことは象徴的だ。これらの会議(で発表された)学術論文や要旨は数十万人の患者の調査から得られたもので、ときには唯一の情報源だった。大惨事は世界中でたちまち無視されるようになったが、この情報は世界中で入手可能になるべきである。本書では、記者会見では発表されたものの、学術論文としてはまったく発表されていない、いくつかの非常に重要なデータを引用している。  放射能汚染地域で献身的に働き、汚染のある患者の放射性同位体が出す放射線に曝されることなどを含めて、付加的な放射線に被曝した医療専門家たちの死亡率および罹病率は疑いの余地なく高い。これらの医師や科学者の多くは早くに死亡し、それが、チェルノブイリの医学的な研究成果がこれまで発表されなかったもう一つの理由にもなっている。  1986年から1999年までに、ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアで開かれた多くの科学的で実践的なチェルノブイリ会議において発表されたデータは、省庁の定期刊行物、雑誌、各種の論文集(「ズボルニク」)で手短かに報告されたが、それらを再び収集することは不可能である。「科学的プロトコル上の不適合」という批判を退け、これらのデータから価値ある客観的情報を引き出す方法を探さなくてはならない。ちなみに,原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の公式刊行物では、学術誌の審査を経ていないデータや、ときには手稿が引用されることも少なくない。  2006年11月、ドイツ電離放射線連邦委員会はニュルンベルクでチェルノブイリの健康への影響に関するドイツ連邦放射線防護庁ワークショップを開催した。これは異なる方法を取る専門家たちにとって、オープンで徹底的な議論を交わし、大惨事の住民の健康への影響を分析するためのまれな機会となった。この会議において得られた一つの結論は、過去のチェルノブイリ資料についてとりわけ重要である。それは、西側の科学的プロトコルを欠くデータは、同一もしくは類似の資料を使った研究(結果)が異なっている場合にのみ疑うことが望ましいというものだ。科学的および社会倫理的見地から考えれば、厳密な科学的プロトコルなしに得られたデータについての検討を拒むことはできない。 2.3 チェルノブイリに由来する放射性核種の多大な影響を否定するのは誤り  自然の電離放射線は常に地球上の生命の一要素だった。実際、放射線は今も続く遺伝子の突然変異のおもな発生源の一つであり、突然変異は自然淘汰やあらゆる進化の過程のもとになる。人間を含む地球上のすべての生命は、この自然のバックグラウンド放射線が存在するもとで進化し、適応した。  「チェルノブイリの放射性降下物は地球全体のバックグラウンド放射線量にわずか2%程度を加えるに過ぎない」と推計した科学者もいる。この「わずか2%」は取るに足りないかのように見えるが、騙されてはいけない。北半球の多くの住民にとって、チェルノブイリの放射線量は自然のバックグラウンドと比較して何倍も高い場合があり、一方、ほかの人びと(ほとんどは南半球で)にとってはゼロに近い場合もある。チェルノブイリの放射線量を地球規模で平均することは、病院の全入院患者の体温を平均するようなものだ。  もう一つの論点は、世界には、チェルノブイリに由来する放射性降下物の平均値よりも自然のバックグラウンド放射線が何倍も高い場所がたくさんあり、そのような場所でも人間は問題なく生活しているのだから、チェルノブイリの放射性降下物による影響などさほど大きくないというものである。この主張について詳しく議論しよう。ヒトには、ヨーロッパヤチネズミやイヌと似たレベルの放射線に対する感受性の個体差がある。ヒト全体の10%から12%は他の人より低い固有の放射線感受性をもつ一方、約10%から14%はそれが他の人よりも高い(Yablokov, 1998, 2002) 。ヨーロッパヤチネズミに対して実施した、ほ乳類の放射線感受性に関する実験は、放射線感受性がより低い集団が確立するには、およそ20世代の激しい自然淘汰が必要なことを示した(Il'enko and Krapivko, 1988)。実験用ヤチネズミの集団について当てはまることがチェルノブイリの放射能汚染地域のヒトにも当てはまるとすれば、400年(ヒトの20世代)後には、汚染地域の地元の人びとも放射線に対して今日よりも低い感受性を持つかもしれないことを意味する。放射線への抵抗力の低い個人は、自分たちの子孫が真っ先に集団から消されるであろうことに納得するだろうか。  一つの物理的なたとえで、 ほんのわずかの放射線でも余分に被曝することの重大さを説明できる。縁まで満たされたコップの水が溢れるには、ほんの数滴の水が加わるだけでよい。その同じ数滴は、縁まで水で満たされているのがコップではなく樽であっても同じように溢れ始めさせることができる。自然のバックグラウンド放射線はコップと同じぐらい小さいかもしれないし、樽のように大きいかもしれない。容量にかかわらず、チェルノブイリ由来のわずかな余分の放射線が、人の健康と自然において、損傷と不可逆的変化というオーバーフローをいつ起こすのかまったくわからない。  上記の推論全体により、チェルノブイリ事故による被曝は、たとえそれが世界のバックグラウンド放射線における平均値のわずか2%であったとしても、無視できるものではないことは明らかだ。 2.4 チェルノブイリ大惨事による住民の健康への影響の特定    さまざまな放射性核種が内部被曝と外部被曝を原因とする放射線誘発性の疾患を引き起こしたことは明らかである。そのような被曝の影響を特定するにはいくつかの方法がある。 ・ 自然環境、社会環境、経済的特徴は等しいが、放射能汚染の程度が異なる複数の地域において罹病率や死亡率、および学生の学習能率などの事柄を比較する(Almond et al.,2007) 。これはチェルノブイリ研究においてもっとも一般的な方法である。 ・ たとえば安定型染色体異常のような、年齢や性別の違いを反映しない健康上の指標を使い、被曝の前と後で同じ個人(もしくは、親、子、兄弟、姉妹など遺伝的に近い親族)の健康状態を比較する。 ・ 取り込んだ放射性核種のレベルが異なる複数の集団に対して、罹病率を中心に特徴を比較する。大惨事直後の数年は、住民の80%から90%の内部被曝の線量は、おもにセシウム137によるものだった。そのため、他の放射性核種に曝されなかった人びとについては、取り込んだセシウム137のレベルが異なる人びとにおける疾患の比較により、その影響の客観的な結果が得られる。ベルラド研究所(ミンスク市)の研究で示されたように、この方法は大惨事後に生まれた子どもたちに対して特に有効である(詳細は第4部を参照)。 ・ まれな疾患がまとまって現れている場所と時期を特定し、さまざまな放射性核種による汚染のある地域と照らし合わせる(たとえば、ロシアのブリャンスク州における特殊な白血症の研究。 Osechinsky et al.,1998)。 ・ 特定の器官における病変と、それに起因する疾患および死亡率を、体内に取り込んだ放射性核種のレベルとともに記録する。たとえば、ベラルーシのゴメリ州(ベラルーシ語でホメリ州)における心疾患など(Bandazhevski, 2000、2005、2009)。  「証拠の不在」を強調し、集団の被曝線量と健康被害とのあいだに「統計的に有意な」相関がなければならないと主張する専門家がいるが、それは方法論として欠陥がある。当時、データ収集が精密におこなわれなかったため、集団の被曝線量と線量率を正確に計算することは事実上、不可能だ。もし本当にチェルノブイリ大惨事の健康に対する影響を方法論的に正しいやり方で理解し、推定したいと思うなら、汚染地域において、放射能量は異なるがその他の点では同様の集団間もしくは集団内における差異を比べると明らかになるだろう。 <訳注> 1. 西側世界:本書のWestやWesternは、東欧に対する西欧でも、東洋に対する西洋でもなく、チェルノブイ リ事故発生からソ連邦崩壊後の1990年代前半まで、冷戦時代のいわゆる東側ブロック(共産圏)と西側ブロック(日本なども含む自由主義圏)の差異が大きかった時期に、かつての東側に属する本書の記述 対象地域では西側の科学的プロトコル(手順)などが一般化していなかったという文脈でのEastに対するWestである場合が多い。 2. 自律神経循環器系失調症(vegetovascular dystonia):心臓神経症、不整脈、起立失調症候群、起立性調節障害など、自律神経失状態が循環器系にあらわれる症状のこと。スラブ語圏独特の病名で、一般的に「植物神経(=自律神経)緊張症」等と訳されてきた。チェルノブイリの事故処理作業者や被曝者の循環器系にみられる多重の疾患や症状を、放射線との関係はないものとして診断する場合に多用された。 3. 体性神経症状:運動神経と感覚神経の総称で、自律神経系に対し、感覚と運動を支配する神経。体性感覚や特殊感覚に基づく骨格筋の反射による運動機能の調節、大脳皮質の働きに基づく意志による運動機能に関与する。対して、環境・状況の持つ慢性的なストレスが、発病により大きく起因する神経症のことを状況神経症、または現実神経症という。 4. ラド:放射線被曝を表す単位の一つで「吸収線量」と呼ばれる。放射線を受けた物質が、電離や励起といった放射線との相互作用の結果、重量1g当たり100エルグのエネルギーを吸収したときの被曝が1ラドである。現在はradに代わって、グレイ(Gy)の単位が用いられている。1Gy=100rad。 5. 別稿10番:この部分は別の公式機密書類に言及している箇所で、その書類の「10番」にここで問題にされているような記述があることを指す。 6. レントゲン:放射線被曝を表す単位の一つで「照射線量」と呼ばれ、物質にX線とガンマ線をどれだけ浴びせたかを示す。標準状態(1気圧25度C)の空気1立方cm中に1静電単位(esu)のイオン化を生じるX線またはガンマ線の量が1レントゲン(R)である。細かいことを抜きにすると、人体への1レントゲンの照射は約1ラドの吸収線量となる。 7. バイオドシメトリ法 :日本語では「生物学的線量推定」。原発事故や放射能汚染で被曝した人の被曝量を、その人の身体中に残されている被曝の痕跡を用いて推定する方法。リンパ球中の染色体異常頻度を調べる手法や歯のエナメル質に記憶されている結晶状況の変化をESR(電子スピン共鳴)で観測する手法などが確立されている。 8. 不安定型染色体異常:二動原体、環状染色体染色体異常のこと。検出感度は高いが、細胞分裂に伴って異常を持つ細胞が失われていくため、被曝後何年もの時間を経てしまうと頻度は低くなる。 9. 安定型染色体異常:細胞分裂によっても除去されず存在し続ける、転座や逆位などの染色体異常のこと。検出感度が低い。 10. 信頼区間:‘観測値’を基に、母数(隠れたホントの値)の存在しそうな範囲を、統計学を用いて区間推定したもの。たとえば、90%信頼区間とは、母数がその範囲外にあったときにその「観測値」を得られる確率が10%以下となる区間である。つまり、100回の観測を行って、観測値が得られる毎にその90%信頼区間を推定したとき、母数が90%信頼区間の中に入っていないのは10回以下、逆に言えば、『100回のうち90回以上は推定した信頼区間の中に母数が存在している』と考えて良い。 11.『チェルノブイリの祈り――未来の物語』 スベトラーナ・アレクシェービッチ著 松本妙子訳 岩波書店刊1998年、岩波現代文庫2011年 12. 症例対照研究:疾病の原因を明らかにするため、疫学で用いられる研究手法の一つ。英語ではケースコントロールスタディと呼ばれる。疾病が発生している集団に着目し、まず疾病を有する人(症例)を選び出し、同じ集団の中から、疾病を有さずかつ性別年齢や生活条件などができるだけ症例者に似ている人(対照)を選び出す。一つの症例に対し対照は複数で構わない。疾病の原因に関連しそうな要因について、こうして選んだ症例グループと対照グループの個人履歴を調査し、グループ間で違いが認められれば、それが疾病の原因と関連している可能性が大きいと判断する。グループを選び出した時点から過去にさかのぼって履歴を調査するので、‘後ろ向き研究’とも呼ばれる。

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