2013年2月11日月曜日

(私の被爆体験から. 沢田 昭二.、素粒子の理論物理学者、名古屋大学名誉教 授、原水爆禁止日本協議会代表理事.) http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No109/sawada20100426a.pdf 1945年8月6日、原爆が投下されたとき私は 13歳でした。 その日私は病気で、爆心地から1400mの自 分の家にいて、原爆が投下された瞬間、私は 眠っていました。そのため、ピカッと光った閃光 も、ドンという衝撃音も知りません。原爆の破壊 はそれほど瞬間的なものでした。 気がついたときは、つぶれた家の下敷きに なっていました。必死にもがいて、壊れた家の 中から、やっと這い出すことができました。潰れ た家の上に立ち上がったとき、外は暗闇でした。 朝日を遮った焦げ茶色の空気はやがて茶色 から黄色に変わり、白っぽくなって、最後に遠く が見えるようになりました。その瞬間、私はびっ くりしました。広島の街全体が、見渡す限りつぶ れて平らになっていたのです。私には何が起 こったのか見当がつきませんでした。 その時、すぐ足下から私の名を呼ぶ母の声 がしました。母と私はそんなに離れていないの に、母の声はとても遠くからのように聞こえまし た。それは、母の声が、壊れた屋根や幾重にも 重なった壁土や材木に遮られているからだと わかりました。 母は、脚を太い柱か梁に挟まれて動けない と言いました。私は持てる力いっぱいに梁や柱 を引き抜こうとしました。壁土をめくりとろうと力 いっぱい押し上げてみました。しかし、私の力 ではどうにもなりませんでした。大人に助けを 求めましたが、怪我をしている大人は、自分が 逃げるのが精一杯でした。母を助けようとしな がら、 「大地震が起きたんね」 と尋ねますと、母は 「いや違う。大きな爆弾が家の近くで爆発した」 と答えました。 初めは、破壊された建築物の残骸に火がつ いていることに気づきませんでしたが、原爆 が爆発した瞬間に、燃えるものには火がつい ていたのです。しばらく、くすぶっていた火が次 第に強くなってきました。火が迫ってきたことを 母に話すと、母は 「お前は生き残って、よく勉強して立派な人間 になりなさい」 と言ってくれました。 さらに火が強くなったとき、母は 「あきらめなさい。母さんはもういいから、ここか ら早く逃げなさい」 と言いました。私は母を置いて逃げるのを躊 躇していました。 大きな火事嵐が起こったそのとき、母から 火は見えないはずなのに 「今すぐ逃げなさい」 と命令のように言いました。その声は遠くてか すかでしたが、きっぱりとした言葉でした。この 言葉は私に、母を残して立ち去る覚悟をさせ ました。私は 「お母さんごめんなさい!」 と言って、その場から逃げ出しました。これが、 私が母とかわした最後の会話になりました。 道がなく、炎と煙の中を逃げました。潰れた 家が折り重なり、ひどく火傷をした人が逃げて いるのしか見ていません。焼けただれた皮膚 があごや爪から垂れ下がっていました。やっと のことで川岸にたどり着き、川を泳いでわたり、 砂浜に突っ立って、対岸が激しく燃え上がって いるのを眺めつづけました。煙と炎は雲になっ て私の頭上に覆いかぶさってきました。あの炎 の中にいる母のことを思うと、はらわたが千切 れる思いでした。「何とかして助けることがで きなかっただろうか?」今でも母のことを想う たびに、同じ思いをめぐらします。 1954年3月、南太平洋のビキニ環礁で米国は水爆実験を行いました。その水爆は私の体 験した広島原爆の1000倍の破壊力でした。水 爆の出現に私は大きな衝撃を受けました。そ のとき私は、専門にしようとして物理学を学ぶ 学生だったからです。核物理学が悪用され、こ のままでは物理学の成果によって人類と地球 上の生き物が滅亡してしまうという強い危機 感を持ちました。それ以来、物理学の学生とし て、後に物理学者として、核兵器をなくす運動 を始めました。 私は今、被爆者の政府に対する原爆症認 定集団訴訟に関わって、原爆の後障害を科学 的に明らかにする研究をしてきました。その結 果、米国政府の支支援で行われる原爆放射 線の影響に関する研究では、放射性降下物と 誘導放射化物質による残留放射能の影響が 完全に無視しされていることを見出しました。 残留放射線の影響は主として内部被曝によっ て起こり、これらの影響が現在の被爆者の主 要な障害であることもわかりました。残留放射 線の影響を無視することは、「地下貫通核兵 器」のような新しい「使いやすい核兵器」の研 究と開発を推進してきたブッシュ政権と密接 に関連し、こうした核兵器を使うと、大量の残 留放射能によって広島・長崎とは別の「この世 の地獄」が出現するでしょう。 今、日本、韓国、その他の国々に約25万人 以上の被爆者が、今なお身体、生活、精神の 困難と苦闘し、それは年齢とともに深刻になっ ています。米国、旧ソ連諸国、その他の核保有 国を含め、世界中に、核実験参加兵士や風下 住民のように、ウラン鉱山から核兵器製造まで の全課程で引き起こされた放射線被害者は 何百万人もいます。原爆の被爆者にとって、核 兵器を使うことは人類の歴史上もっとも許され ざる犯罪であることは明らかです。誰に対し ても、どんな目的と理由があろうとも、何処で でも核兵器を使ってはなりません。 私は、人類に対して核兵器廃絶のために2 重の責任をもっており、これが母の最後の言葉 に応えることだと考えてきました。責任の一つ は、科学者あるいは物理学者としての責任で す。もう一つは、あの日の惨状を体験した被爆 者としての責任です。 今こそ核兵器を廃絶する時です。不道徳な 核抑止論から離脱し、この核不拡散条約再検 討会議で、核兵器条約についての誠実な交 渉を始めるよう訴えます。 沢田昭二:素粒子の理論物理学者、名古屋大学名誉教 授、原水爆禁止日本協議会代表理事 e-mail<sawadas@fb3.so-net.ne.jp>

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