2013年2月10日日曜日
福島原発事故にともなう飯舘村の放射能汚染調査報告.
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/etc/Kagaku2011-06.pdf
(いまなか てつじ.京都大学原子炉実験所)
(遠藤暁 えんどう さとる.広島大学大学院工学研究院)
(菅井益郎 すがい ますろう.国学院大学)
(小澤祥司 おざわ しょうじ.日本大学生物資源科学部)
3 月11 日の東日本大震災に付随して発生した
福島第一原子力発電所事故では,津波による非常
用発電機能の喪失などが重なって,“起きること
が想定されていなかった長時間の全電源喪失” と
いう事態に至った。その結果,4 基の原発で“冷
やす・閉じ込める” 機能が喪われ,1 号機・3 号
機での水素爆発にともなう原子炉建屋破壊,2 号
機での格納容器の部分破壊,4 号機使用済み燃料
プールでの水素爆発によると思われる建屋破壊な
どといった一連の事態により,大量の放射能が環
境に放出されるに至っている。本稿をまとめてい
る現在(5 月8 日)においても,原子炉や燃料プール
の安定的冷却には至っておらず今後も不測の事態
が起こる可能性も否定できないが,これまでに放
出された放射能量だけでも,今回の福島原発事故
が1986 年のチェルノブイリ原発事故に比して考
えられる規模に至ったことは確かである。
原発事故の災害評価や環境放射能の問題に取り
組んできた筆者らにとって,今回の事故に対する
東京電力,原子力保安院,原子力安全委員会とい
った責任当局の対応は,理解しがたいことの連続
であった。震災2 日目の12 日夕方に第一原発周
辺20 km からの避難指示が出され,15 日には20
~30 km での屋内退避指示が追加されたものの,
環境中での放射線量については,東京電力から原
発敷地境界での放射線量が発表されるだけで,
30 km 内一般環境中での放射線量や汚染レベルに
ついての情報がまったく出てこなかった。また,
こうした原発事故に備え,気象条件や地形条件を
考慮して被曝量予測を行うため長年かけて開発さ
れてきたはずの,緊急時迅速放射能影響予測ネッ
トワークシステム(SPEEDI)の予測結果が発表され
ないのも不思議な現象であった(5 月4 日に至って
5000 件の予測データが原子力安全委のホームページに掲載され
た)。そうした情報不足のなかで,福島県災害対
策本部が発表していたモニタリングデータ結果に
よると,第一原発から北西39 km に位置する飯
舘村の役場前で3 月15 日18 時20 分に44.7
nSv/h という放射線量率が記録され,その後3 月
24 日においても約13 nSv/h というかなり大きな
値が続いていることが判明した。このことは,
30 km 圏外の飯舘村一帯においても,看過しがた
い放射能汚染が存在していることを示唆しており,
私たちは急遽3 月28 日と29 日に現地放射能汚
染調査を実施した。その結果,飯舘村のほぼ全域
にわたって自然放射線レベルをはるかに上回る放
射能汚染が観察され,なかでも福島原発から約
30 km の村南部での汚染が強かった。地表に沈着
した放射能のガンマ線核種分析結果にもとづいて,
3 月15 日の放射能沈着後3 カ月間の積算放射線
量を見積もってみると,村の中央部にある役場で
約20 mSv,南部の長泥字曲田(以下「曲田」と記す)
で約60 mSv という値になった.
調査チームの経緯
飯舘村の放射能調査を計画した段階で今中はま
ず広島大学の遠藤に協力を要請した。遠藤が電離
箱放射線測定器を持参して調査に参加してくれる
ことになり,また,国学院大学で公害問題に関わ
ってきた菅井も協力してくれることになった。飯
舘村の現地調査を決断したものの,震災後の道路
状況やガソリン不足といった問題への対処を検討
している段階で,飯舘村の村興し活動を20 年に
わたり支援してきた“飯舘村後方支援グループ”
(代表:糸長浩司(日本大学生物資源科学部教授,NPO 法人エコ
ロジー・アーキスケープ代表))の小澤から,放射能汚染
問題について今中に問い合わせがあり,事情を話
したところ飯舘村現地に詳しい小澤らのグループ
も調査に協力してくれることになった。
3 月28 日午前,今中,遠藤,菅井,小澤の4
人が東京都内のホテルに集合し,まず調査に持参
する装備の点検を行った。放射線測定器としては,
ALOKA 製ポケットサーベイメータPDR-101,
ALOKA 製電離箱式サーベイメータICS-313,
ALOKA 製アルファベータ用サーベイメータ
TCS-352,さらに個人用積算計としてはALOKA
製電子ポケット線量計PDM-111 を持参した。
ホテル室内でのPDR-101 読みは0.04 nSv/h であ
ったが,ホテル前の歩道上では0.13 nSv/h を示
した。(西日本の花崗岩地域では自然バックグラウンド
0.10 nSv/h のところもあり,さほど神経質になる線量率レベル
ではないが)東京都内のいたるところに放射性セシ
ウムや放射性ヨウ素が沈着していることを示して
いた。
都内でレンタカーを借り,再開したばかりの東
北自動車道を利用して福島方面へ出発した。途中,
上河内サービスエリア敷地内での放射線量率は
0.26 nSv/h,高速道路車中では0.5~0.8 nSv/h の
値が続いた。15 時頃にJR 福島駅前の駐車場に到
着。駐車場のアスファルト上では0.8~0.9 nSv/h
で,わきの草地では4 nSv/h であった(放射線障害防
止法にもとづけば,“3 カ月間の被曝が1.3 mSv” つまり“0.6
nSv/h” を超えるおそれのある場所は“放射線管理区域” に指定す
る必要がある)。そんな汚染は関係ないように,福島
市民は普通の格好で普通の生活をしているようだ
った。
飯舘村の状況と放射線量率測定結果
駅前の駐車場で飯舘村役場からのワゴン車に乗
り換え,約50 分のドライブで飯舘村役場へ到着
した(計画当初はレンタカーで飯舘村まで行く予定であったが,
途中の山間部で道路凍結の心配があり,役場がスノータイヤ付
きのワゴン車を提供してくれたもの)。17 時前に飯舘村
役場に到着。役場前のロータリー(石畳)の線量率
は6.5 nSv/h。コンクリート製の庁舎内は0.5
nSv/h 程度であった。会議室で菅野村長に面会し,
放射能汚染の強さと広さを明らかにするという調
査の目的を簡単に説明し,改めて協力を要請して
快諾してもらった。
役場に隣接する「までいな家」を宿舎として提
供してもらうことになり,そこで荷を解いた。す
でに夕刻だったが,カッパ,長靴,マスクなどの
個人装備を整え,ワゴン車に測定器を積み込み,
汚染の強いと思われる村の南部の下見を実施した。
南に向かうにつれて線量計の数字は上がり,村の
南端あたりでPDR-101 が振り切れた(20 nSv/h 以
上)。今中の職場である京都大学の研究用原子炉
(KUR)では,20 nSv/h 以上の場所は“高線量率区
域” に指定され,放射線作業従事者であってもむ
やみに立ち入らないことになっているが,そのよ
うな放射線量率の場所に,人々が普通に暮らして
いるという不条理な光景が目の前に広がっていた。
そのあたりの土をサンプリングするなら,“法的
に放射性物質として扱わなければならない濃度”
に達していることは経験的に確かであった。
2 日目は,午前8 時過ぎに「までいな家」を出
発し,まずは相対的に汚染の弱そうな北部の調査
を行った。役場職員の運転手と道案内役,現地で
サポートにあたっていた“飯舘村後方支援グルー
プ” のメンバーである浦上健司,それに調査グル
ープの4 名がワゴン車に乗り込み,村内道路(ほ
んどアスファルト舗装)の交差点など,地図上で位置
を確認しやすいところで車をとめ,同時にGPS
で位置を確認しながら,車内での線量率を測定し
た(図1,表1)。村役場周辺を含む村の中央から北
西部の放射線レベルは5~7 nSv/h で,伊達市方
向へ向かう峠を越えると2~3 nSv/h に減少した。
村内北東部では,大倉峠手前の5~6 nSv/h から
峠を下ると大倉付近の2~3 nSv/h へと減少した。
午前中に飯舘村北側の92 地点(図1,表1 の#49~
#143)を測定した。
午後は南部の38 地点での放射線量を測定した
(図1,表1 の#144~#181)。南部では,北部に比べて
大きな放射線レベルが認められ,比曽川沿いの下
比曽地区から蕨平地区にかけては,10 nSv/h を
超える放射線レベルが認められ,CsI ポケットサ
ーベイメータ(PDR-101)と電離箱サーベイメータ
で同時に測定を実施した。曲田地区(#166)での車
内での最大値では,PDR-101 は振り切れたが,
電離箱での測定は20 nSv/h であった(PDR-101 の読
みは電離箱に比べ5~10% 大きい傾向があった)。この地点
における車外道路上(地上約1 m)の電離箱線量率は
24 nSv/h で,隣接している畑地では30 nSv/h で
あった。それまでの測定結果から,車,建物など
による放射線の遮蔽効果(放射線量率の透過係数)は,
車で0.6~0.8,木造家屋で約0.4,コンクリート
建物で約0.1 と見積もられた。
土壌のガンマ線核種分析結果
図1 に示した測定地点のうち,役場(#49),臼
石(#53),山津見神社(#88),左須(#98),曲田(#165)
において,採泥器を用いて深さ5 cm の土壌を採
取した。採取した土壌は,広島大学大学院工学研
究科放射線実験室において,40 g を取り分け,
Ge 検出器によりガンマ線を測定した。#53 のガ
ンマ線スペクトル例を図2 に示す。図2 のスペ
クトルから,132Te,131I,132I,129Te,129mTe,137Cs,
134Cs,136Cs,140La といった放射性核種が同定さ
れた。また,99Mo,99mTc,140Ba らしきピークも
存在するようである。これらのピークの計数率を
もとに核種濃度を決定し,5.5 cm#7.5 cm の楕円
形の採泥器の採取面積32.4 cm2 を用いて,面積
当りの汚染密度に換算した(表2)。土壌採取場所
の地表1 m での放射線量率は,#165(曲田)では
24 nSv/h,それ以外の4 地点では,およそ10
nSv/h であった。また,狭い地域での土壌汚染の
ばらつき具合を見積もるために,飯舘村役場の花
壇おいて50 cm#60 cm 程度の面積内から,5 つ
の土壌試料を採取し,同様に汚染密度を求めた。
ここでは測定結果は省略するが,汚染密度のばら
つきはせいぜい10% 程度であった。
表2 に明らかなように,飯舘村の放射能汚染は,
セシウム,テルル,ヨウ素といった揮発性の核種
が主体である。一方,チェルノブイリ事故の場合
の原発周辺30 km では,95Zr,141Ce,140Ba とい
った不揮発性核種の汚染が137Cs の汚染を越えて
いる1。このことは,出力暴走にともなう爆発炎
上により炉心の放射能が飛散したチェルノブイリ
と違い,福島事故では,冷却能力低下にともない
高温となった炉心から出た希ガスや揮発性核種が,
気相経由で環境に放出されたもので,不揮発性核
種の割合が少なかったものと考えられる。また,
132Te や131I といった短半減期核種の存在は,飯
舘村の放射能汚染は,燃料プールに保管中の使用
済み燃料ではなくて,震災時に運転中であった原
子炉起源であることを示唆している.
空間線量率と積算線量の見積もり
表2 に示した役場土壌の汚染核種データを用
い,3 月15 日夕刻の放射能沈着以降の地表1 m
での放射線量率を計算し,3 月29 日のPDR-101
測定値や役場前のモニタリングポストデータと比
較してみた(図3)。地表汚染密度から地表1 m 放
射線量率への換算係数はBeck の値2を用いた。得
られた計算値は,PDR-101 によく一致している。
またモニタリングポストデータに比べると,計算
値は2 割程度大きく,花壇とモニタリングポス
トの周辺状況の違いが理由として考えられるが,
全般的な線量率変化傾向はよく合っていると言え
るだろう。図3 より,沈着後10 日間の空間放射
線の主体は,132Te(半減期3.02 日)の娘核種である
132I(2.28 時間)で,それ以降は134Cs(2.06 年)である。
表2 に示すように,134Cs と137Cs(30.0 年)の沈着放
射能密度はほぼ同じであるが,単位Bq あたりの
放出ガンマ線の強さ(つまり線量率換算係数)が134Cs
は137Cs の2.7 倍大きいためである。134Cs と137Cs
の空間線量寄与が同等となるのは2 年半後で,
その時の空間線量率は約3 nSv/h という値となっ
た。
表2 の役場と曲田の土壌データを用いて,積
算の放射線量を求めてプロットしたものが図4
である。放射能沈着後1 年間の積算放射線量は,
役場で48 mSv,曲田で160 mSv という値が得ら
れた。原子力安全委員会の定める“原子力防災対
策について”3に従うと,“10~50 mSv の屋外放射
線量が予測される場合は屋内退避” また“50~100
mSv の屋外放射線量が予測される場合にはコン
クリート建物内退避または避難” といった対策を
とることになっている。汚染の強い曲田のデータ
にもとづくと,沈着後3 日間で10 mSv,3 カ月
で50 mSv に,役場のデータでは1 カ月後の
10 mSv を超えることになる。
* *
政府の原子力災害対策本部は4 月22 日,原子
力災害対策特別措置法第20 条3 項に定める“特
例権限条項” を適用して,飯舘村全域を“計画的
避難地域” に指定した。福島第一原発から30 km
以上も離れ,農業にもとづく村興しを目指してき
た人々の村が法的強制力でもって消滅の危機にさ
らされている。これまで,安易に原子力エネルギ
ー利用の拡大に励んで来た人々の責任が問われる
とともに,日本国の原子力政策はその根本から問
い直されるべきであろう。最後に,緊急事態のな
かで放射能調査に協力頂いた菅野典雄飯舘村村長
と役場の方々に感謝の意を表する。
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