2013年2月19日火曜日
長崎で被爆し「空気がいい」と誘われて福島県南相馬市に移り住んだ男性の苦難の物語。東電の補償説明会。被爆者手帳を携えて「心から謝ってほしい」と訴えると、返ってきた答えは「原爆と原発事故は別です」
http://mainichi.jp/select/news/20130218ddm041040055000c.html
ヒバクシャ広島/長崎:3/1 見えない恐怖、2度も.
毎日新聞 2013年02月18日 東京朝刊
◇移住した南相馬で原発事故 自分が黙ってはいけない.
国際社会の警告とヒバクシャに背を向けて、北朝鮮が3回目の核実験を強行した。核拡散の脅威に包まれた中で、3月11日に東日本大震災から2年を迎える。東京電力福島第1原発事故後、福島の人々は見えない放射能におびえながら暮らしている。記録報道「ヒバクシャ’13 冬」は、原発事故で一時避難を余儀なくされた福島県在住の被爆者の声に耳を傾けることから始めたい。
東京電力福島第1原発の北24キロにある福島県南相馬市原町区に、長崎で被爆した男性がいる。原発事故が起きるまで周囲に被爆者だと明かすことなくひっそりと暮らしてきたという。私は1月中旬、男性の自宅を初めて訪ねた。
「40年近く住んでいるのに、働けなかったから友達もいない。原爆のことは思い出すだけでつらくて、家族にもほとんど話さなかったんです」。居間のこたつで体を起こし、永尾大勝(だいかつ)さん(79)は静かに語り始めた。一年の半分はベッドで過ごすという。
11歳の夏だった。爆心地から4・5キロの自宅でパンツ一枚になり「のらくろ」の漫画を読んでいた。異変を感じ外に出た時、青い光が走り、体が吹き飛ばされた。家族は一命をとりとめたが、近所の人たちの行方が分からない。父と一緒に残留放射能に満ちたがれきの街を歩き、遺体を見つけては荼毘(だび)に付した。
戦後上京し妻マサ子さん(72)と出会う。東京は高度成長を迎えていた。タクシー運転手として働き、子にも恵まれた頃から、下痢や手足のしびれが強くなる。「俺は負けない。家族を守る」。休んだ分を取り戻そうと必死にハンドルを握った。
「仕事もあるし、空気もいい」と知人に誘われ、75年に南相馬へ移り住んだ。だが就職面接を受けても、長崎でのことを詳しく聞かれては不採用にされた。歩くのもままならなくなり、マサ子さんがスナックを始め、自身は炊事や洗濯を担った。家計が苦しく、成績の良かった長女を大学に行かせてやれなかった悔いは今も残る。
2人の子が巣立ち、還暦を過ぎてから小さな中古住宅を手に入れた。ようやく静かな時が訪れたところに、東日本大震災が起きた。
原発事故の深刻化で政府に屋内退避を求められ、夫婦は窓を閉め切った部屋で身を寄せ合った。マサ子さんは地震で転倒して太ももを骨折していたが、町から人が消え、電話も通じない。「原発のある町に連れてきた俺のせいだ」。痛みをこらえきれず泣く妻を前に、頭を下げることしかできなかった。1週間近くたって食料が底を突きかけたころ、近所の人に助けられ、県外に避難した。
再び放射能におびえる暮らしが始まった。少年だった夏の光景がまた夢に現れる。やけどをした学徒兵が「水をください」と足にしがみついてきた。水筒の水を飲ませると、息を引き取った。
半年後、東電の補償説明会に行った。被爆者手帳を携え「精神的に参っている。心から謝ってほしい」と訴えたが、「原発事故と原爆は別です」。通り一遍の答えが許せなかった。「目に見えないものへの恐怖に、なぜ2度も苦しめられなければならないのか」
事故から間もなく2年。避難した子供たちが徐々に町へ戻り、線量計を持って暮らしている。「自分がこのまま黙っていてはいけない」という。
そんな折の2月12日、北朝鮮が3回目の核実験を強行した。私は改めて話を聞いた。「放射能の恐ろしさは体験していない人には分かってもらえないものなのか」。少しいらだっているようだった。
取材の度に、永尾さんは訴えかけるように言う。「私の話、あなたには伝わっていますか? あの日パンツ一丁で『のらくろ』を読んでいて……」<文・竹内良和/
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