2013年2月23日土曜日
(小児甲状腺がんになった子の手紙.)
http://www.kakehashi.or.jp/?p=8083
(チェルノブイリの悲劇を二度と繰り返さないように!)
少年時代―それは、人生において最も美しい時期であり、少年時代を思い起こす時には、いつも甘やかな感情がよみがえる。それでいて、中には忘れたい思い出もあり、しかし、それらは体にしみついて私を不安にさせ、うずき、忘れたくてもどこにも出て行ってはくれない。
私が忘れたくても忘れることのできない記憶、それがチェルノブイリだ。
自分がまだ小さかったその時のことを私はよく覚えている。
(当時私の家族はブラーギン地方の●●という町に住んでいた)夕方になると、いつも私はチェルノブイリ原子力発電所の赤くゆらめいている灯りを眺めるのが好きだった。それは私たちの家から10キロのところにあった。私は父や母によく、「あそこで、あの灯りの向こうで何を燃やしているの?」とたずねたものだった。
分かったことは、あれは大きな発電所の灯りで、その発電所のお蔭で僕はテレビでアニメを見たり、僕たちの家の明かりがつくのだ、ということだった。その不思議な力に私はすっかり魅了されてしまった。
私は両親に、もっと近くまで行ってあの奇跡をこの目で見たいと懇願した。
私はチェルノブイリについての最後の出来事も、しっかりと記憶している。
それは恐ろしく長い火事で、炎が、煙がとぐろを巻き、風に乗って私たちの村までやってきた。ヘリコプターがたくさん飛んでいた。私はとても恐かった。
しかしその時はまだ、それが何なのかを知らず、その火事がとてつもなく大勢の人の命を奪ってしまうなどとは考えもしなかった。そして、その炎は私の人生も台無しにしてしまった。
思い出すと、悪夢のようだ。
疎開、サナトリウム、見知らぬ家の見知らぬ人たち、違う町の僕たちの新しい、けれど僕にはよそよそしい家、新しい学校、新しい友達。
それから後は、少年時代と結びつくものは、病院の白い壁、白衣、僕の大好きな母の悲しそうな顔、いつもいつも母が来るのを待ちわびていたこと。これらは入院していた時のことで、数え上げたら限がない。
入院して、生まれて初めて、素晴らしいことが一瞬にして悲劇に変わりうること、人から命や健康をいとも簡単に奪い、しかもそれを取り戻すのは殆ど不可能だということを理解した。
12歳の年に僕は甲状腺の悪性腫瘍と診断された。ゴメリの●●地方でこの病気にかかったのは僕が初めてだった。
ミンスク市にある第一総合病院で検査をし、手術を受けた。その後は度重なる入院治療、病院、サナトリウム。普通の生活はどこかへ行ってしまった。
そして今日まで続くリハビリ。
始めは休みなく、後に定期的になった健康診断。
生きている間ずっと飲み続けなければならない薬。
再発するかも知れないという不安・・・とても辛かった、が直に僕は大人になった。病気で授業を休むことが多かったが、僕は一生懸命勉強した。
高校を出て農業大学に進んだ。現在私は農業技師で、自分の家族―妻と子どもがいる。自分の家も持ちたいし、豊かになりたいと願っている。努力すれば大体のことは成し遂げられるだろう、しかし健康状態がそれを許してはくれない。私は自分の病気や合併症については話したくない。私は2001年の身体障害者自己申告をしなかった。…略…
チェルノブイリの炎は私の人生に恐怖をもたらした。差し迫った手術を前にして、幾度レーニャ(自分のこと)少年の心は恐怖で縮みあがったことか。
恐怖が、私の人生から喜びを追い出してしまった。
今、私は大人になり、病も小康状態なので、他の人たちと同じように生活をし、働き、過去を忘れようと努力している。
私の人生に喜びが再び訪れたのだ。私はベラルーシに、私たちのすぐ隣の町、モギリョフ地方に原子力発電所建設の決定がなされたと聞き、この手紙を書くことを決意しました。なぜなら、どんな子どもたちにも、またもちろん自分の息子にも、もう二度と「平和な」原子力の犠牲者の道を歩んで欲しくないからです。私は、彼らの人生において、私の時のように喜びのかわりに恐怖がやってくるような、そのようなことはおきて欲しくない。
レオニード 1979年生まれ
妻、子ども2人
(個人が特定できる町の名前等は伏せさせていただきました)
この子は、幸いにも、甲状腺癌の発見が早く、転移していませんでした。
今、日本の政府がしていることは、「癌にならせてから切る、移住や避難はさせない」ということを徹底しているように見えます。
もちろん、この条件を撤回していくことは、私たちの重要な使命ですが、今の、過酷な現状にお母さんたちが気をしっかり持ってください。覚悟して、自分たち親子が生き抜く決意を持ってして、望めば道が開かれる。
小児甲状腺癌のいちばん怖いのは、発見の遅れが、転移につながることです。
政府がなぜ、関東の汚染について沈黙しているのか。とても補償しきれないけれど、チェルノブイリ級の汚染ですから隠すこともできなくなってきます。
では、なぜウキウキルンルンの山下氏が関東の子供たちには興味がなかったかと言えば、チェルノブイリと違ったデータがとれると思ったからでしょう。これ以上はあまりにひどいので書きたくないです。
こんな中を、TPPで遺伝子組み換えを持ってくるというのです。農薬とセットで。
正気か?
おまけにTPPで医療崩壊も起こるでしょう。医療関係者が今まで口をつぐみ、自分たちの地位や名誉を守ってきましたけれど、明日はホームレスになりうるほどの、恐ろしい勢力です。
こういう時代に強いのは、何度も言うように、自分たちの食べ物をつくる程度の農地、あるいは信頼できる農家さんとのつながりしかありません。
気をしっかり持つこと、自分の子は天皇の子、天皇になる子だと思ってみてください。
しっかり強い子に育て上げる、誰にとっても、どんな子でも、日本を担う子です。
この少年の心の成長を感じていただけましたか?
私はチェルノブイリのお母さんたち、ベラルーシのお母さんたちは偉かったと本当に思います。
寒い地方、冬は半分は凍てつく大地、青物野菜なんて手に入らない。
自給自足で汚染されているけれど、すべて自分たちの手作りで3食用意していました。窓辺で緑の野菜を育て、外国の救援グループと連絡をとり、子供に毎日愛していると愛を伝え続けた。
もうもう、その姿は、必死の2文字です。
何がいちばん大切なのか、みんなわかっているのです。政治的な発言も禁止、自分に経済力もなければ、もうあとは、愛情と祈りしか残りません。
地域で協力し合えるグループをつくれたら、それを10年20年と育てていかなければなりません。
「内部被ばくを生き抜く」という鎌仲ひとみさんの映画に出てくるスモルニコワさんは、小児科医でした。彼女は定年を迎えた後も、子供たちのために救援グループのために活動し続けました。
旧ソ連では画期的な民主的なグループです。外国のどのグループからいくらの支援金があり、いくらつかったか、つまびらかにする。(旧ソ連では、国からもってして、会計報告のない状態でしたので、画期的でした)
そこまでお母さんたちの意識改革を持って行くこと。
ごちゃごちゃ文句を言う人がいたら、次の年は、その人間がそのセクションの責任者になる。
ま、やってみれば、自分も相当文句を言われて、そんなに完璧に仕事ができるもんでもない、ぎゃあぎゃあ言ってもしかたのないことだとわかるわけです。
あるとき、私たちのホールボディカウンターをスモルニコワさんたちの事務所に置いておいたときに事件が発生しました。
明日、去年保養してた子供たちを計測するという前の晩、その測定器の腰掛けの部分がまっぷたつに割れている。
私は事務所の担当の女の子にこれはどういうこと?と問い詰めたら、「泥棒が事務所を物色したとき、台にされてバキっと割れた。でも、機械の機能そのものには影響ない」としれっとしています。
「これじゃ、明日は計測できない!」と私が言うと、「こんなの30分で直せるわ!」というのです。
彼女は倉庫で直し始めましたが、30分たっても1時間たっても直らない。
とうとう夜中になるまで、かかりました。
私は大工さんをよんで直してほしいと頼みましたが、彼女はこのことが大事にならないようにしたいから自分で直すと。
次の日の朝、私はスモルニコワさんに、「昨日、いすを直すのに夜中までかかった。理由は彼女が話すと思う」私は自分で言うのも嫌だから、彼女が素直に言ってくれたらいい。
普通の日本人は、ここで彼女がスモルニコワさんにいすの故障を隠していたことを謝るかと思うでしょう?
ところが、どんなふうに自分が椅子を修理したか自慢が始まったのです。
泥棒が入ってからずっと椅子が割れていたのに半年以上も放置して、隠していた。
私は、こんなんじゃ、一緒にできない、寄付金を渡したりできないと、エネルギーが失われていく。
その測定器は200万円以上したのですから。
「野呂さん、あなたたち日本人のように正直な人たちばかりが、私たちのメンバーではない。私はこのメンバーで子供たちを助けていくしかない。私たちの国はこういう国なの…」とスモルニコワさんの、『かけはしはこれにこりず、子供たちの応援を続けるのよっ!』という心の声にねじこまれました。
今、ずいぶんと考える。
正直な人、自分の心に正直な人がどれだけ、この日本にいるだろうか?募金する側として神経質になりすぎていたし、なんのことはない、日本の政府のほうがうんと不正義で不正直で、子供たちを放射能にさらしている。
私は思う。関東のお母さんたちの疎開の訴訟や、移住の訴訟をやっていかないといけない。
原発事故は福島県にだけで起こっているわけじゃない!
具合が悪かったら、放射能があるところにいたら、子供を保養に出さなければいけません。
つらくても、やりぬく、生き抜くと心に誓ってほしい。
この数値だからこうなる!なんてことも言えない。
リスクは高いかもしれないけれど、努力した人間に、奇跡は起きる。
だから、祈りとともに。
もしも、この少年の作文が、子供たちの支えになるのなら。
(この子はチェルノブイリから10kmのところに住んでいたので、その後すぐに強制移住。その後、原発から約180kmほど離れた地域に移住しましたが、そこも汚染地域でした。だいたい年間総被曝量1~2.5ミリシーベルトぐらいの地域)
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