2013年2月11日月曜日
戦争と核=原子力.京都大学・原子炉実験所 小出 裕章.
Ⅰ.歴史に学ぶ
戦争と庶民の歴史
20 世紀は戦争の世紀といわれます。第1 次、第2次世界戦争がおき、世界中が戦争に巻き込まれまし
た。ただ、人類の歴史は遠い過去からずっと戦争の歴史だったと言えそうですし、それにはキリスト教
をはじめ、宗教が深くかかわってきました。キリスト教は2000 年に亘ってユダヤ教を差別し、ユダヤ
人を迫害してきました。その挙句にナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅作戦も起こりました。その悲惨
な歴史を見つめ、戦後ドイツの大統領になったワイツゼッカーは1985 年、「荒野の40 年」という演説
を行いました。その中で彼は以下のように言っています。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を
変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現
在にも盲目となります。
日本もまた明治維新以降、富国強兵の道を歩み、日清・日露の両戦争、第1次、第2次の世界戦争に
参戦し、アジアを中心に多数の人々を殺戮しましたし、日本の庶民もまた多数が犠牲となりました。そ
の歴史に巻き込まれ、「君やふるさとのためには死ねるが、天皇のためには死にたくない」と言った許
婚を「天皇のために死んで来い」と言って戦地に送り出した随筆家の岡部伊都子さんは書いています。
私ははっきり、戦争を当然とし、死を当然とし、兄や愛しい人びとの死地に戦うのを当然と考えていた。
こわいという、いやと言う、素直な皮膚感覚を失っていた。私は、敗戦によるショックをうけるまで、何を
疑うこともなかった。「信従の精神が大切です」と女学校で教えられるままに、まさに信従してはならないこ
とに信従していたのだ。 私は、そのために今度は、目をさまして素直に発言しはじめた自分の皮膚感覚を、
愚直なまでに守ろうとする。
時代に狎れることに、私はもうこりご
り。
その岡部さんの詩に「売ったらあか
ん」があります。
Ⅱ.核の本質
原爆の強烈な破壊力
1945年3月10日、東京は300機を超え
るB29による空襲を受け、下町を中心に市街地の40%が灰燼に帰し、10万人の人々が焼き殺されました。その時に雨あられと投下された焼夷弾
の量は1665トンでした(平凡社、世界大百科事典)。その5か月後、広島、長崎に原爆が投下されました。
広島原爆の爆発力は火薬に換算して16キロトン、すなわち1万6000トンで、長崎原爆のそれは21キロト
ン、2万1000トンでした。そして、それぞれ10万人の人々が筆舌に尽くしがたい苦悶のうちに短期日に
死亡し、幸か不幸か生き延びた人々はヒバクシャとなって、その後の人生を奪われました。
ところが、原爆が示した強大な爆発力への恐れは、次に、未来へのエネルギー源としての期待に転化
しました。化石燃料はいずれ枯渇するので、未来のエネルギー源は原子力だと言われたのでした。日本
では、「核」と「原子力」は違うものであるかの様に宣伝され、「反核」はいいが、「反原子力」は間違
いであると考える人が多数います。
連鎖反応
今、ここに灯油1kg と火薬1kg があったとしましょう。それぞれに火を点けたとして、どちらがどれ
だけ多くのエネルギーを出すでしょう? 正解は、灯油1kg が出すエネルギーが約1万キロカロリー火薬1kg が出すエネルギーは約1000 キロカロリーです。火薬といえば、莫大なエネルギーを出すよう
に思われがちですが、実際には火薬は灯油の10 分の1のエネルギーしか出しません。灯油を含め普通、
物が燃えるということは、その物質が酸素と結びつく反応を意味します。したがって、酸素がなければ
物は燃えないし、供給できる酸素の量に見合った形でしか反応は進みません。しかし、火薬は爆発現象
を引き起こさせたいのであり、酸素の供給に見合ったスピードでしか燃えないというのでは話になりま
せん。そこで、酸素がなくても燃えるように工夫を重ね、ようやくにして得られたのが火薬です。しか
し、そのために、反応で得られるエネルギーは大幅に犠牲にされてしまいました。
1938 年暮、ナチス・ドイツ政権下で化学者オットー・ハーンがウランの核分裂現象を発見しました。
この現象から莫大なエネルギーが放出されることが分かりましたし、重要なことがもう一つありました。
すなわち、ウランは中性子と結合して燃える、つまり核分裂という現象を起こしますが、この反応の場
合、1個の中性子を吸収して核分裂を起こすと、2個あるいは3個の中性子が飛び出してくることです。
すなわち、初めの中性子さえ供給すれば、後は反応が自立的に鼠算式に拡大していくのでした。まさに、
爆発現象を引き起こすための条件で、核分裂反応はその反応で放出される莫大なエネルギーを一切犠牲
にせずに爆発現象を起こします。この時代は第2次世界戦争前夜であり、この物理現象は一気に原爆へ
と開花しました。そのことを不幸なことであったと言う人々がいますが、もともと核分裂反応はその本
性からして爆弾向けなのでした。.
唯一の被爆国
日本はよく「唯一の被爆国」と言われます。たしかに新しく米国大統領になったオバマは2009 年5
月にプラハで演説し、米国が「唯一核兵器を使用した国」であると述べました。もちろん紛れも無く、
広島・長崎は被爆地で、日本は被爆国です。しかし、米国は自国内のネバダ核実験場でたくさんの核実
験を繰り返し、周辺の住民が被曝しました。それだけでは足りず、ビキニをはじめとするマーシャル諸
島でもたくさんの核実験を繰り返しました。そのため、日本の第5福竜丸をはじめ、たくさんの漁船が
被曝しましたし、それ以前にマーシャル諸島の住民が被曝し、挙句の果てに島を追われました。同じこ
とは旧ソ連セミパラチンスクでも起こりましたし、フランスが核実験場にしたタヒチでも起こりました。
英国はオーストラリアを核実験場に使いましたが、そこでも先住民が被曝しました。中国は新疆ウィグル自治区を核実験場としました。どこでも常に弱い立場の住民が被曝させられてきました。
その上、核兵器を作るためにはウラン鉱山でウランを掘らなければなりませんし、長崎型の原爆を作
るためには原子炉を動かし、そこでできたプルトニウムを再処理して取り出す必要もありました、それ
らの工程はすべて、厖大な環境汚染を引き起こし、たくさんの被曝者を生み出してきました。
核兵器を廃絶するためには世界中の声なき声を集める必要があります。そのためには、「唯一の被爆
国」という考えを捨て、世界中の被曝者たちと手を繋ぐ必要があると私は思います。しかし、たくさん
の人々が生活していた街の頭上に原爆を落とされた国の人間として、私たちにはやはり特別な役割があ
るでしょう。
(Ⅲ.日本が進める核開発)
ウラン原爆とプルトニウム原爆
ウランの核分裂現象が発見されたのは第2次世界戦争の前夜、1938 年の暮れも押し詰まった頃でした。
ナチスの迫害を逃れて米国に移っていたアインシュタインをはじめとする優秀な科学者たちが、ナチス
より先に原爆を作らなければいけないとルーズベルト大統領に進言し、米国の原爆製造計画である「マ
ンハッタン計画」が始まりました。
もちろん、当初はウランを材料にして原爆を作る構想が生まれました。しかし、一口にウランと呼ぶ
元素の大部分は「非核分裂性ウラン(U-238)」で、「核分裂性ウラン(U-235)」はわずか0.7%しか存在し
ません。そのU-235 を集める作業を「ウラン濃縮」と呼びます。しかし、この「ウラン濃縮」という作
業はとてつもなくエネルギーを必要とする大変な作業でした。そのため、原爆炸裂時に放出されるエネ
ルギーより遥かに多くのエネルギーを、ウラン濃縮だけのために使わなければなりませんでした。
一方、超優秀な科学者たちは、U-238 を「核分裂性のプルトニウム(Pu-239)」に変換し、Pu-239 で
原爆を作る方法もあることに気づきました。そして、ワシントン州ハンフォードに巨大なプルトニウム製造用原子炉と、生み出されたプルトニウムを分離するための再処理工場が作られました。こうして、
マンハッタン計画ではウラン原爆とプルトニウム原爆を作る作業が平行して進められました。結局、
1945 年夏になって米国は3発の原爆を完成させましたが、そのうち2発がプルトニウム原爆でした。1
発は人類初の原爆として、米英ソ3国首脳が日本への降伏勧告を協議するポツダム会談の日にあわせて、
米国の砂漠アラモゴルドで炸裂(トリニティ=三位一体)。もう1発が長崎原爆・ファットマンとなり
ました。「核分裂性のウラン」で作られたウラン原爆は広島に落とされたリトルボーイです(図1参照)。
プルトニウム利用のための核燃料サイクル
すでに述べたように、ウラン全体の中で核分裂性のウラン(ウラン235)が占める割合はわずか0.7%で
す。そのため、原子力に夢を託す人たちはウラン全体の99.3%をしめる燃えないウランをプルトニウム
に換えて利用することを思いつきました。それを実現するために必要なものが、非核分裂性のウランを
効率的にプルトニウムに変換するための高速増殖炉を中心とする核燃料サイクル計画でした(図2参
照)。そして、原子力をエネルギー資源にしようとして、米国を含め核(=原子力)先進国は高速増殖炉
路線に足を踏み込みました。世界で一番初めに原子力発電に成功したのはEBR-1 と呼ばれる高速炉で
1951 年12 月のことでした。ところが、高速増殖炉は技術的、社会的に抱える困難が多すぎて、一度は
手を染めた世界の核開発先進国はすべてが撤退してしまいました。 日本の原子力開発長期計画(以下、
長計)による高速増殖炉実現の見通しを図3に示します。高速増殖炉の開発計画が初めて言及されたの
は1967 年の第3回長計でした。その時の見通しによれば、高速増殖炉は1980 年代前半に実用化されることになっていました。ところが実際には高速増殖炉は
はるかに難しく、その後、長計が改定されるたびに実用
化の年度はどんどん先に逃げていきました。1987 年の第
7回長計では「実用化」ではなく、「技術体系の確立」と
され、さらに2000 年の第9回長計では、ついに数値をあ
げての年度を示すことすらできませんでした。2005 年に
「原子力政策大綱」と大仰な名前になって改定された計
画では、2050 年に初めの高速増殖炉を動かしたいと書か
れていますが、そんなことが実現できる道理がありませ
ん。
(高速増殖炉の真の意図)
日本は資源小国であるから原子力が必要で、どうして
もプルトニウムを利用する必要がある、そのために高速
増殖炉を動かすと国は言います。そのために計画された
「もんじゅ」と名づけられた原型炉は1995 年暮れに試運
転に入った途端に、事故を起こし停止してしまい、すで
に15 年近く止まったままです。「もんじゅ」を開発した技術者たちはすでに定年でいなくなってしまいましたし、
15 年も動かなかった機械を動かすなど普通はあり
えません。しかし、国は再度それを動かそうとして
います。国が固執する本当の理由は、その炉が生み
出す核分裂性プルトニウムの割合が98%で、超優秀
な核兵器材料だからです.
厄介もの処理としてのプルサーマル
日本は、先の戦争でアジアを中心に海外の人々に
多大の厄災を及ぼしました。現在の日本の為政者た
ちは「国際社会」なる言葉が大好きで、日本は国際
的に信頼されているかのように装っています。しか
し、かつてドイツのシュミット首相は「日本はアジ
アに友人がいない」と評しましたが、アジアどころ
か世界中に友人がいません。一方で、エコノミック
アニマルとしてカネをちらつかせ、一方で米国に従
うのが国益だなどという国が「国際社会」から信頼される道理もありません。そんな日本が、「原子力
の平和利用」と称しながら使い道のないプルトニウムを保有することも国際社会が許す道理がなく、日
本は余剰プルトニウムを持たないと国際公約させられたのでした。
しかし、仮に原子力を進めている人たちの計画通りに行ったとしても一番初めの高速増殖炉が動き始
めるのは2050 年です。それにも拘わらず、それが実現するとの前提で日本は使用済み核燃料の再処理を英国・フランスに委託し、すでに
45 トンにも上るプルトニウムを分
離して溜め込んできてしまいまし
た。それで長崎型の原爆を作れば
4000 発も作れてしまいます(図5参
照)。
そのため今、日本は何が何でもこ
のプルトニウムを始末しなければ
ならなくなりました。そのために苦
し紛れに考えられたのが、プルトニ
ウムを普通の原子力発電所の原子
炉として利用されている熱(サーマ
ル)中性子炉で燃やすという「プル
サーマル」計画です。
(核開発と原子力開発)
日本では、「核」といえば軍事利
用で「原子力」といえば平和利用で
あるかのごとく宣伝されてきまし
た。「Nuclear Weapon」は「核兵器」、「Nuclear Power Plant」は「原子力発電所」と訳されます。「Nuclear
Development」は、もしそれを行う国がイランや朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と表記)であれ
ば「核開発」と訳されます。たとえば、朝鮮が原子炉を稼動させたり、イランがウラン濃縮施設を稼動
させたりしようとすると、「核開発」と断罪し、「国際社会」が制裁するのだそうです。それなら質問し
たい。日本には原子炉はないのか? ウラン濃縮はしていないのか? 再処理をしていないのか? 日
本には現在53 基の原子力発電所が稼動中です。その上、巨大な濃縮工場があるし、再処理工場も東海
村で動いている上、さらに今また青森県六ケ所村で巨大な再処理工場を稼動させようとしています。と
ころが、それらすべては「核開発」ではなく「原子力開発」なのだと日本の国は言います。そして、「原
子力開発は文明国にとって大変大切なものであって積極的に推進する」と言います。しかし、もともと
技術に軍事用も平和用もありません。今日の日本人は原子炉といえば発電を思い浮かべるでしょうが、
もともと「原子炉」とは長崎原爆の材料となったプルトニウムを生み出すためにこそ開発された道具で
す。また、「再処理」とは原子炉を運転して生み出されたプルトニウムを死の灰から分離するために開
発された技術です。もともと、科学・技術に「軍事」用と「平和」用の区別はありません。もしあると
すれば、かつて野坂昭如さんが指摘したように「戦時」利用と「平時」利用の差しかありません。もち
ろん「平和」利用といいながら開発した技術も、必要であればいつでも「軍事」的に利用できます。今
日「原子力の平和利用」などと称して使われているすべての技術は米国の原爆製造計画、マンハッタン
計画から生まれました(図2参照)。
もちろん、核兵器保有国、米・英・仏・露・中の5カ国は「ウラン濃縮」「原子炉」「再処理」の核開発中
心3技術を持っています。そして、非核兵器保有国で唯一、それら3技術を持っている国が日本です.
(Ⅳ.不公正な世界)
異様な報道.
今年4 月初め、日本のマスコミはいっせいに「北朝鮮がミサイルを発射した」と、その他一切の報道
を取りやめて、繰り返し、繰り返し放送しました。
もともと、この件は、3 月半ばに朝鮮が国際民間航空機関(ICAO)に対して「人工衛星」を打ち
上げるとして、航空機と船舶の安全に関する資料を提出したことに始まりました。そして、実際に、朝
鮮はその通告どおりにロケットを発射し、切り離された推進装置は朝鮮の通告どおりの危険水域に落下
しました。
一方、日本政府は、北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射すると決め付け、撃墜命令まで出して、危機
を煽りました。一体、人工衛星を打ち上げると国際機関に通告した国に対して、それを撃墜するなどと
表明する国がどこにあるのでしょう?
もともと、防衛省が安全保障会議に提出した報告書に「弾道ミサイルの発射であれ、人工衛星の打ち
上げであれ、推進部の大型化、多段階推進装置の分離、姿勢制御、推進制御等必要となる技術は共通し
ている」と書かれているとおり、ロケットも大陸間弾道ミサイルも多くの技術は共通しています。した
がって、日本政府から見れば、朝鮮が打ち上げたものが人工衛星打ち上げ用のロケットであれ、大陸間
弾道ミサイルであれ、いずれにしても許しがたいということになるようです。
しかし、日本はすでにH2 ロケットをはじめ多くのロケットを打ち上げてきましたし、朝鮮に対する
スパイ衛星さえ、打ち上げています.
それなのに、朝鮮がロケットを使って人工衛星を打ち上げること
が悪いことなのでしょうか? 仮に、それが弾道ミサイルであったとしても、朝鮮はミサイルを持って
はいけないのでしょうか? いうまでもなく米国は無数の軍事用人工衛星を打ち上げ、無数の大陸間弾
道ミサイルも持っています。日本と米国はほんのわずかのロケットあるいはミサイルを打ち上げた朝鮮
を「国際社会」なる言葉を使って断罪します。しかし、日本政府や日本のマスコミが言う「国際社会」
とは、現在の世界を支配している米国と、それにつき従うのが国益だなどという卑屈な国の総称でしか
ありません。
朝鮮の歴史
朝鮮の歴史にとって決定的に大切でありながら、多くの日本人が忘れていることがあります。それは
朝鮮と米国はいまだに戦争状態にあることです。
朝鮮は古くから大陸の文化を日本に伝える大変貴重な地域、国でした。ところが、大日本帝国の軍事
的膨張政策のため、日清・日露の戦争後、1910 年に日韓併合という名のもと日本の植民地とされました。
日本の植民地支配は苛烈で、創氏改名、朝鮮語の禁止、神社の崇拝、そして何よりも天皇の崇拝を強制
され、民族的な文化を破壊されました。1945 年の日本の敗戦は、多くの朝鮮人にとっては大日本帝国か
らの解放と受け止められました。今でも、日本で終戦記念日(何故、敗戦記念日でないのか、私は疑問
に思いますが・・・)と言われる8 月15 日を、韓国では光復節、朝鮮では解放記念日として祝います。
しかし、日本と米国との戦争は、悪逆非道の日本と正義の米国との戦争であったわけではありません。
それは世界の覇権を狙う両帝国同士の戦争であり、圧倒的な力の差の下に米国が日本を完膚なきまでに
打ち破った戦争でした。そして、米国は当時の共産主義との確執を前に、日本や朝鮮を東洋における共
産主義の防波堤にしようとしました。そのため、日本では最高の戦犯である天皇が戦争責任を問われな
8
いまま温存されましたし、朝鮮では日本統治下の役人がそのまま政権に居座ることが許されました.
。そ
のため、本来であれば日本の植民地から解放され、晴れて独立を果たすはずであった朝鮮は、血を血で
洗う内戦へと導かれて、南北に分断されたのでした。1948 年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が相
次いで独立を宣言し、1950 年6 月にはついに朝鮮戦争に突入。38 度線で膠着した戦争は、1953 年に停
戦協定に至りました。その停戦協定に署名したのは、朝鮮と米国、それに中国だけで、大韓民国すら署
名していません。その後、すでに56 年の時間が流れましたが、朝鮮と米国の間では依然として停戦協
定があるだけで、未だに戦争は終わっていません。その一方の当事者である米国は核兵器、生物兵器、
化学兵器、大陸間弾道ミサイル、中距離ミサイル、巡航ミサイル、ありとあらゆる兵器を保有し、自ら
の気に入らなければ、国連を無視してでも、他国の政権を転覆させる国です。そうした国を相手に戦争
状態にある国が朝鮮であり、不幸なことではありますが、ハリネズミのようにならざるを得ません。
ちなみに、朝鮮半島を南北2つの国に分断させた38 度線は、かつて日本が朝鮮を支配していた時の、
関東軍と広島大本営の支配地域の境界線です。それほど、朝鮮半島を「南」「北」に分断させたことに
ついて日本の罪は重大です。その上、日本という国は朝鮮戦争を利用し、朝鮮特需をもって戦後の経済
を立て直したのです。自らが苦難に陥れた人々を、さらに足蹴にし、自分だけが繁栄を図ろうとしてき
た国です。そして今なお、「北朝鮮による脅威」を煽り、米国につくのが国益だと、戦争を放棄したは
ずの憲法も無視して、弱いものいじめに荷担します。日本の政府とマスコミは「北朝鮮」を悪の権化の
ように宣伝し続け、多くの日本人も「北朝鮮」という呼称を平気で使います。しかし、彼の国の人々に
言葉に尽くせない厄災を加えてきた国の一員として、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と呼んで敵
視することを私は拒否します。
(六カ国協議)
日本では、六カ国協議とは、朝鮮に核を持たせないための会議だと宣伝されています。しかし、6カ
国協議の本当のテーマは朝鮮半島の非核化です。私はそうなって欲しいし、朝鮮にも核を持って欲しく
ありません。しかし、そのためには米国が韓国に配備している核についても同時に撤去すべきものです。
日本は戦争当事国の一方の国を「同盟国」と呼び、その国の「核の傘」に隠れながら、朝鮮の核だけを
取り上げて非難を繰り返しています。まったく論理が通らないし、こんなことをしていては朝鮮半島の
非核化の妨げになるだけです。
長年、核兵器廃絶に努力してきた国際核戦争防止医師会議(IPPNW)のバーナード・ラウン前会長は、
一向に自国の核を放棄しようとしないまま、他国への核拡散を押さえ込もうとしている核兵器保有国を
指して、以下のように言いました。
核保有国が一貫して言ってきたことは
『我々がしている通りではなく、我々が
言う通りにせよ。我々は核兵器を持って
良いが、君たちはいけない。』
(公正であること)
現在、日本では憲法9条の改悪の策
謀がが進んでいます。その憲法9条は、
憲法前文に示されている理念に基づいたものです。その憲法前文は前頁右下のように書かれています。
「全世界の国民が、ひとしく」とあるとおり、一部の国が享楽的な生活を送り、一部の国はそれにひ
れ伏して生きなければならないという世界そのものが間違っています。
(Ⅴ.自分を売らない生き方)
ドイツ福音主義協会、マルチン・ニーメラーについて
かつて、ナチス・ドイツは600 万人のユダヤ人を殺害しました。ドイツのM・ニーメラーは第1次世
界戦争の時にはU ボートの艦長として活躍した軍人でした。戦後、彼は福音主義教会の牧師になりまし
たが、キリスト教の中には「ドイツ・キリスト者」などナチズムに迎合する勢力も生まれました。彼は
ヒトラーの教会政策に抗して1933 年「牧師緊急同盟」を結成して「ドイツ教会闘争」を指導しました
が、1937 年7 月に捕えられ、ナチス・ドイツ敗戦までダハウの強制収容所につながれていました。
戦後間もなく、ニーメラーは彼の妻とともにダハウの強制収容所を訪れ、その時のことを以下のよう
に書き残しています。「その建物(死体焼却炉)の前に1本の木が立っていて、そこに白く塗った板がかけてあり、黒い字で何
やら書いてありました。この板は、ダハウで生き残り、最後にアメリカ兵によって発見・救出された囚人た
ちの、いわば最後の挨拶のようなものだったのです。つまり、彼らが、先に死んでいった仲間のために書い
た挨拶です。こう読めました。『1933 年から1945 年までの間に、23 万8765 名の人々がここで焼かれた』。
それを読んだとき、妻が失神しそうになってわたしの腕に中に沈み、ガタガタ震えているのにわたしは気が
つきました。わたしは彼女を支えてやらなければなりませんでしたが、同時に冷雨のようなものがわたしの
背すじを走るのを覚えました。妻が気分が悪くなったのは、25 万人近くという数字を読んだためだと思いま
す。この数字は、わたしにはどうということはなかった。わたしはもう知っていましたから。その時わたし
を冷たく戦慄させたものはいくらか別のこと、つまり『1933 年から1945 年まで』という2つの数字だった
のです。・・・1937 年の7 月1 日から1945 年の半ばまでは、わたしにはアリバイがあります(注・その間
彼は捕えられていた)。しかし、そこには『1933 年から』と書いてある。・・・1937 年の半ばから、戦争の
終わりまでは、お前にはなるほどアリバイがある。だが、お前は問われているのだ。『1933 年から37 年の7
月まで、お前はどこにいたのか?』と。そしてわたしは、この問からもう逃れることはできませんでした。1
933 年には、わたしは自由な人間だったのです・・・」
「ナチスがコミュニストを弾圧したとき、私はとても不安だった。が、コミュニストではなかったから、
何の行動も私は行わなかった。その次、ナチスはソシアリストを弾圧した。私はソシアリストではないので、
何の抗議もしなかった。それから、ナチスは学生・新聞・ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げて行き、その度に
私の不安は増大した。が、それでも私は行動しなかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧して来た。そ
して私は牧師だった。が、もうその時はすべてがあまりにも遅すぎた。」「ナチスに責任を押しつけるだけでは十分ではない。教会も自らの罪を告白しなければなりません。もし
教会が、本当に信仰に生きるキリスト者から成り立っていたならば、ナチスはあれほどの不正を行うことが
できたでしょうか」
いま、私は日本の国家からも、また米国からもなんらの拘束も受けていませんし、この会場にお集ま
りのキリスト者の方々もそうだと思います。その私たちは、歴史の審判に耐えられるように今を生きて
いるでしょうか?
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/kouen/OC091129.pdf
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