2012年10月23日火曜日

(橋下徹の暴力団性 - 佐野眞一による人格批判の急所 ) http://critic5.exblog.jp/19311313/ 週刊朝日の橋下徹批判の問題に関して、読者の方から次のようなメールを頂戴した。「佐野眞一さんの作品に心から敬意を表する者として、このブログに非常に励まされました。今回のハシシタ連載、ここまでタブーに果敢に挑戦して橋下徹を批判できるジャーナリストは、おっしゃる通り今の日本では佐野さんしか思いつきません。彼の作品が、本となって世に出ることを心から願います。偉大なる俗物、独裁者、大衆迎合の大変危険な男が、日本を動かす政治家になり、さらに今後も増長しようとしています。自分を批判するものにはヒステリックに攻撃を加え、論点をすり替えて大衆を扇動する様は、まさにハシズムです。昨今のワイドショーや報道番組での佐野批判を見ていると、このハシズムに犯されていく社会に非常に恐ろしくなります。私は某新聞社に勤める一記者です。同業者の中にも、残念ながら橋下を支持する者が少なからずいます。既存の政党への嫌悪感から橋下に期待を抱く人たちの気持ちは分からないでもありません。しかし、この男の仮面の裏に隠されたものを見抜かなければ、日本はまた暗黒の時代に逆戻りする気がします」。朝日が白旗を揚げて早々に屈服して以降、佐野眞一叩きはさらに激しさを増し、今回の一件は、週刊朝日と佐野眞一による悪質な部落差別であり、世俗の偏見につけこんだ悪意の暴論だったとする認識と評価が固まった。 週刊朝日の怯弱な降参劇はともかく、当の佐野眞一までが遺憾の意を表し、公開の場で自らの主張を堂々と弁明せず、「今回の記事は週刊朝日との共同作品であり、すべての対応は週刊朝日側に任せています」などと言って姑息に退散している以上、最早、佐野眞一を擁護する意味も理由もなくなった。この肩透かしの釈明には脱力させられる。連載を中止して朝日が懺悔し、佐野眞一も戦線放棄して遁走したのだから、事件として決着収束で、政治的には全面敗北に他ならない。「血脈主義だ」「部落差別を助長した」「人権侵害だ」と決めつけた橋下徹の側が勝利した。こうなると、今さら記事の中身は実はこうだと私などが反論しても、それが説得力を持って人に届くわけがない。が、あの記事で橋下徹の出自を論じている部分は、決して被差別部落の血脈という事実が強調されているわけではない。その論点を特に問題化したのは、むしろ記事を攻撃した橋下徹自身や橋下徹の支持者たちである。客観的に読んで、出自で焦点となっているのは、部落ではなくて暴力団の要素だ。橋下徹の父親の親戚という人物の証言の形式で、橋下徹の父親の少年時代から青年時代、そして自殺の直前までの情報が載っている。こんな記述がある。「ワシ一回、河内の志紀の方にあった博打場の手配師から、来てくれって呼ばれたことがあるんや。そのときビッキャンが博打場でケンカしとったの覚えとる」(P.23)。 「ケンカの相手は無期懲役で仮釈放されよった男やったけどな。その男が女に手を出そうとしたとき、ビッキャンが血相変えて相手をどつき倒したんや。橋下がテレビで相手をめちゃめちゃ言うて負かしてしまうのは、ビッキャンの血や」(P.23)。どうやらこの人物も、河内方面のその世界の関係者だということが分かる。佐野眞一の今回の作品において、橋下徹の血脈を問題にし、その「非寛容な人格」と「厄介な性格の根にある橋下の本性」(P.22)を告発するとき、照準に捉えられている核心は、橋下徹の暴力団性という真相に他ならない。橋下徹の人格と所業はきわめて暴力団的だ。佐野眞一は、この要素は父親譲りのものだと描いている。橋下徹は、サラ金大手「アイフル」傘下の取立業者である商工ローン会社「シティズ」の代理人弁護士を務めていた。1999年から2005年までの間で、利息制限法を超える高額の利息支払いを求め、一日でも遅延すると、残金を一括して支払うように債務者に迫り、債務者から全国的な訴訟を起こされてきた、とネットの情報にある。この時期が多重債務問題が最も深刻な問題となっていた時期だった。そして、2003年に日本テレビ系の「行列のできる法律相談所」にレギュラー出演する。司会者は島田紳助。島田紳助が推挙した登板で、橋下徹は「テレビ界に呼んでくださった島田紳助さんにも本当に感謝しています」と語っている。二人の関係に暴力団の影が介在することは誰もが想像する。 佐野眞一の連載は、島田紳助との関係も視野と構想に入れていたかもしれない。今、政界の橋下旋風を受けて、島田紳助の復帰話が噂になっている。島田紳助の電撃引退の後、芸能界で一瞬だけ綱紀粛正の動きがあったが、本命と思われたビートたけしが無傷で生き残り、結局のところ、徹底することなく元の木阿弥となっている。このことは、福岡県の暴力団対策が頂上作戦へと進まず、何やら膠着状態になっていることと無関係でないように思われてならない。政治権力の上の方で、本格捜査に二の足を踏ませている反動の条件が働いている。そのことはまた、グレーゾーン金利擁護の動き(竹中平蔵・安倍晋三)とも関係しているように推測される。要するに、日本の政治全体が暴力団に乗っ取られようとしているのではないか。暴力団的なものに覆われようとしているのではないか。橋下徹の政治現象を見て危機感を抱くのは、何よりそういう問題である。弱者を痛めつけて収奪する新自由主義の手口は、まさしく暴力団のそれであり、橋下徹や竹中平蔵や麻生太郞の毒々しい思想性は、極論すれば、反社会的な暴力団的論理の政策への反映であり、暴力団的手法の合法化と正当化であると言える。この点、小泉純一郎の家系と血脈の問題について、すなわち暴力団性と新自由主義の内面的連関について、2009年の政権交代期にもっと掘り下げて検証し、意味を確認して一般言説化する必要がわれわれにはあったのだろう。 被差別部落の出身者となることは、人には選びようもないことだ。だが、生まれながらの暴力団員はいない。それは血の問題ではない。したがって、それは差別ではない。親が暴力団であっても、子が暴力団的生き方をするかしないかは、本人の選択の問題である。この点、今回の週刊朝日事件で、多くの者は橋下徹の巧妙なスリカエ工作に引っかかり、このルポを部落差別の人権侵害だと認めてしまった。橋下徹の人格における暴力団性という視角で問題を照射すれば、これまでのアカ狩りや教育基本条例や口元チェックやマスコミ記者リンチについても、全体の構造と本質がクリアに読み解けるのではないかと思われる。橋下徹の政治分析においては、個々の政策を問題にしても有効な切り口にならず、説得的な言論にならない。個々の問題や憲法違反等々については、例えば赤旗新聞などが取り上げて詳しく糾弾して書いている。しかし、それらの政策論的、あるいは法律論的な橋下徹批判は、全く人々の関心に触れることなく、無視され、橋下徹の急所を衝くことがない。事実としてワークしていない。想田和弘的な「メタ」の言葉遊びは尚更で、まさしく小熊英二の言う「グーグル=橋下徹」論的なガベッジ・コレクションで終わるのみだ。結局、これまでの橋下徹をめぐる言説の中で、政治論として最も近いところを掠ったのは、小熊英二のグーグル論だった。放っとけば自滅するから、あれこれ言って橋下徹に燃料補填するのは止めとけという消極的処方である。 私は、徒労に終わり、言説市場を賑やかせただけの数多くの橋下徹論の中では、香山リカと小熊英二を相対的に評価する。前者は、橋下徹の問題が人格心理や精神分析の問題だと投げかけた点で点数を与えていい。切り口は人格論である。だが、単に「病気です」では問題の解明にはならない。やはり、橋下徹の問題を考えるに当たっては、導きの糸は、辺見庸の「橋下徹はテレビがひり出した汚物である」の言葉であり、ここからしか説得力を構築することはできず、攻略法は組み立てられないだろう。どうすれば、決定的な橋下徹批判を世に問い、確立させることができるのか。どの方法に拠れば、橋下徹が言語道断な存在だと人々に悟らせ、距離と断絶を覚醒させることができるのか。そのカギは、橋下徹の暴力団的な本質の暴露だ。暴力団(ヤクザ)的なものが政治権力を専横し壟断しつつある倒錯現象に気づかせることだ。自分自身が、暴力団的なもののパフォーマンスを面白がったり、容認したり、快哉を挙げている一人であることに気付かせることである。暴力団的なものが、お笑いから芸能界に浸潤してテレビを冒し、テレビからマスコミに浸潤して報道全体を冒し、マスコミから政界に浸潤して政治全体を冒している。橋下徹が自己演出するイメージは梟雄であり、人々の支持は梟雄への期待と惑溺である。テレビとは、辺見庸が言うとおり、人の意識そのもの。善悪の判断基準を支配するマインドコントロールの装置と環境だ。暴力団は社会の敵であり、市民生活の脅威である。橋下徹の論理と動機と本性が、限りなくそれに近いと意識できれば、拒絶感が醸成されることだろう。 政治家は政策のみによって批判されるべきという主張は間違っている。政策だけでなく、カネやセックスの醜聞が槍玉に上がるのは当然だし、現に東国原英夫や中田宏はそこで窮地に立っている。松本龍や鉢呂吉雄や柳田稔のように失言や暴言で大臣職を追われる者もいる。漢字が読めないという、義務教育の基礎的学力に問題がある者もいる。政治家は資質が問われる。今回、週刊朝日と佐野眞一を糾弾する者で、特にこの論法を振り回す左翼は、政治家は資質でも批判されるという一事を忘れている。また、同じく特に左翼からの論法で、橋下徹の子どもたちに不当な人権侵害が及ぶからという言い分があった。これはスリカエの詭弁だ。本来、人間は、どのような生まれであれ、自分が家庭を持って子どもを養育する立場になれば、子どもたちに迷惑が及ばないように身を律して社会生活を営まむのが当然ではないか。なぜ、闇世界金融の用心棒をやるのか。橋下徹の出自が問題にされるのは、生い立ちと橋下徹の政策や政治行動に因果関係があるからであり、弱者を嗜虐して愉悦するサディズムが散見されるからだ。大阪市長であり、政党党首であり、マスコミが寵児にして英雄扱いする以上、生い立ち情報は必ず一般に漏れる。そして、どのような生まれ育ちであれ、品行方正に務め、後ろ指をさされないように生きている者は多くいる。逆境をバネにして、人に貢献する仕事をして尊敬を勝ち得ている者は無数にいる。橋下徹は逆のパターンなのであり、だから権力を握ると危険だと警戒され、週刊朝日的な報道が絶えない。 最後に、橋下徹や右翼のスリカエに短絡し、「部落差別」のレッテルでアレルギー反応を起こして付和雷同した無知な左翼はどうでもいいが、政治学者を名乗る中島岳志の今回の発言には失望と落胆を禁じ得ない。中島岳志は、ウェーバーのPariah論を知らないのだろうか。今回の問題は、社会科学としては、まさにPariah Capitalism論の出番であり、この概念を方法として適用し、真相を考察しなければならない政治事件であろう。社会科学にタブーはない。政治学者は法律家でも評論家でもない。「部落差別」に単純化して橋下徹に肩入れするなど、呆れてものが言えない。橋下徹という対象をウェーバーのPariah論で分析する上で、佐野眞一は絶妙のノンフィクション素材を提供しようとしていた。

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