2012年10月28日日曜日

「封印された核の恐怖」20万人以上の「実験」 死の灰、黒い雨. http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100006.html  1945(昭和20)年9月、日本は復興への道を歩み始めた。焼け跡に闇市が出始め、バラック小屋が並んだ。東京では国民学校が再開。歌手並木路子(23)の「リンゴの唄」がはやり、みんなが口ずさんだ。だが、原爆で街じゅうが焼き尽くされた広島と長崎だけは別だった。  現在95歳の肥田舜太郎は当時、広島市駐在の軍医。原爆投下時、市郊外で往診中だった。爆心地から北に7キロ離れた山あいの村を拠点に被ばく者の治療にあたった。  押し寄せた人波は皮膚を垂らし、口から黒い血をこぼしていた。「ただ死んでいくのを見ていただけ。正直、何もできなかった」と、当時を振り返る。  当初はやけどで息絶える人が多かった。投下の4日目から様子が変わる。目尻や鼻から血を流し、頭をなでると毛が抜けた。「どうなってるんだ」。途方に暮れた肥田がさらに驚いたのは、その1カ月後。同じ症状でも「わしは原爆にあっとらん」と訴える患者が続いた。  大本営が国民の戦意喪失につながるから、と原爆の事実を隠したのが原因だった。放射能の危険性をまったく知らされず、投下後、身内の安否確認や救助のため市内に入った人たちが「死の灰」を浴び、体内に取り込んだ。  投下2日後に広島市に戻った現在83歳の高橋昌子もその1人。当時16歳の女子高校生だった。  祖母の看病で岡山県にいた高橋は、姉を捜しに爆心地近くの実家に帰ると、台所で姉は真っ白な骨になっていた。指をやけどしながら骨を拾い集めた。「はあー」ともらしたため息の後、放射性物質を含んだ粉じんなどを吸い込み、内部被ばくした。  1カ月後に異変が生じた。高熱、じんましん、下血…。治まっては再発する原因不明の症状が30年近くも続いた。健康診断で訪れた病院で問診を受け「あなたは被ばく者です」と告げられた時、50歳を過ぎていた。  「体の不調は体質だと言い聞かせてきた。何も知らされずに生きてきたのが悔しくて、涙が止まらなかった」  高橋のように原爆投下後、爆心地付近を訪れた「入市被ばく者」は広島、長崎で10万人以上ともいわれる。爆心地から10キロ以上も離れた場所で放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴びて被ばくした人も。  広島原爆から7年後の52年、高橋の元をジープに乗った2人組の米国人が訪れている。復員した男性との間に長男をもうけたばかりだった。  通訳の日本人は「ABCCの調査です」と告げただけ。ABCCは全米科学アカデミーが46年、日本に設立した原爆傷害調査委員会の通称だった。  言われるままに、布団に横たわると、米国人は太い注射器で母子の血を抜き取った。手土産代わりにせっけんを枕元に置くと、採血を大事そうに抱えて立ち去った。その後、今に至るまで何の連絡もない。  ABCCは広島や長崎で被ばくした人たちの健康状態や胎児への遺伝的な影響を調べていた。学術研究が目的とされたが、実際は米国の核兵器研究のデータ集めの側面が強かった。資金提供を申し出たのは、原子力のエネルギー利用などを目指す米政府の原子力委員会だった。 1950年11月に開かれた米原子力委員会の議事録。ウォーレン生物医学部長は「長崎と広島の20万人以上を含む実験結果がある」と発言した  当時、ABCCの日本人スタッフだった現在81歳の山内幹子は「米国人の上司から正確な調査が最優先だと教え込まれた。核爆弾の殺傷能力を研究するのが目的でした」と打ち明ける。  ワシントンの米公文書館に50年11月に開かれた米原子力委の議事録がある。生物医学部長シールズ・ウォーレンは「われわれは、広島と長崎から20万人以上の実験結果を得ることができた」と発言している。  ABCCの調査結果は、日本の被ばく医療に役立つことはなかった。軍医として原爆治療にあたった肥田は戦後、民間医師の立場で被ばく患者の救済に取り組んできた。「米国が治療やデータ公表に前向きだったら、被ばく者医療の質は格段に向上していたはずだ」と言い切る。  肥田は、いつ発症するかわからない内部被ばくこそ核がもたらす大きな罪と考える。深刻な放射能汚染を引き起こした昨年3月の福島第1原発事故もそう。「ただちに健康被害はありません」と繰り返す政府高官の姿を見て「危険性を隠そうという論理は原爆も原発も同じ」と憤る。  福島事故後、90歳を超える肥田は全国150カ所以上を回り、低線量被ばくの危険性を訴えている。「広島、長崎の悲劇を福島で決して繰り返してはならない。それが医師としての私の務め」と話している。

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