2012年10月26日金曜日
(チェルノブイリ調査ツアー報告 その2.)
http://besobernow-yuima.blogspot.de/
■ロガノフスキー博士
9月26日、胎児の放射能被害の研究者(ウクライナでは唯一人)の講演を聞く。
『…被ばくによって左脳(言語の働き)が影響を受けやすく知能低下がみられる。なぜ「左」かはまだ解明されていないが、そこは複雑で、敏感で、新しい、つまり一番難しいところだから放射能や毒性に敏感だ。幼児の言語テストでは、1948年までは同じだったものがネバダでの原水爆実験で知能の低下がみられ、実験を止めてからまた戻った/妊娠時の被ばくが最も危険。病気は様々なものがある(背中の痛み、痙れん、自立神経系、精神異常)。フクシマではストレス、精神的なものがあるだろう。母子への精神的・教育的サポートが必要/不安があれば移住、なければいい。よほど被曝量が多くなければ、中絶の必要はない…』
専門的な話が続く講演だった。私たちは彼の話のどこを取り、どう理解したらいいのだろう。
■アンドレーエフさん
彼は「リクビダートル(事故処理決死隊)」で、「チェルノブイリ連名」代表だ。
『…4月26日は、冷却水がなくなった場合にどうするかの試験運転中だった。事故で31人が死んだ。あの日、朝9時に目を覚ました。娘を連れて外へ出てしまったが、これは人生最大の間違いだった。爆発で、一つの壁を残し原発にはコンクリートの箱が無かった。妻子の服を替えさせ、窓を閉め、カーテンを閉め、床を定期的に拭くようにいった。放射能の雲が来たが、町の周囲にあった松がプリピャチをかなり守ってくれた。
『バスに乗ってプリピャチから制御盤のある仕事場へ行った。停電で真っ暗、150以上の警報機をまずは止めた。「死か、(責任放棄による)刑務所か」私は死を覚悟して踏みとどまり、マニュアルに違反することをして非常に危険だった2号炉を守り、爆発の連鎖をくい止めた。最後の数分間のことだった。
『IAEAを解体しよう。IAEAはチェルノブイリの本当の情報を出していない。アメリカのいいなりだ。WHOとの関係もひどい。日本政府のしていることは犯罪だ。日本大使館へ行ったが中へは呼ばれなかった。…』
午前中の教授も午後の技術者も、制限がある中での発言だろう。科学者の表現はさらに慎重だ。たとえ講演者が良心的であっても、統計としての可能性を「推測」するのみ。しかし、私はこういう時に「フクシマには言葉を選ぶヒマはない」といつも思ってしまう。
私たちは数や統計ではない。フクシマにも一人ひとりの顔、一人ひとりの喜び、それぞれの生活があり、その私たちの子どもの生命が傷つけられ続けている「事実」は確かにあるのだと。
この点、エンジニアのアンドレーエフさんは一味違っていたように思う。それは働く仲間がむごい死に方をしているのを実際に見ているからではないか。仲間の死について語るとき、目を閉じ苦しそうになった彼が、一方で「日本政府は犯罪者だ」とハッキリといってくれたことがとても印象的だった。
■チェルノブイリ原発へ.
検問所の脇に「チェルノブイリを忘れないで」 と英語などで書かれたリボン
9/27、首都キエフから北へ約100キロ地点に原発はある。原発が近くなるにつれ、バスの中はピーピーとあちこちで線量計の警報音が鳴り始め、否が応でも緊張が高まる。私たち調査団は2号機へ向かった。白い帽子、白衣、靴カバーを着けて構内へ。構内は案外線量は低いが、うす暗く細長い通路を歩いていて窓にさしかかったら線量は一気に上がったのを覚えている。2号機の制御室では「外国人はこの10年間で初めての許可」とのこと。室内は線量も高く、1μSv/hをずっと超えている。責任者コーリシュさんは事故当時からずっとここで働いている。「日本では被ばく労働が問題になっているが、体調は心配ありませんか」と私。「定期的な健康診査と休暇があります」といった答え。それが十分なものなのかどうか詳しくは分からないが、孫請けのその孫請けなどで労働者は使い捨て、多重な搾取と差別構造の中にある日本の原発事情に比べれば、はるかにマシな労務管理があるように感じた。ともかくも住民を移住させた国は、この点でも日本とは大きな違いがあるだろう。
再びバスで4号機の見える撮影スポットへ。線量は8~13μSv/h。ウワ~ッ、これ以上積算値を上げたくない!と思いつつ、皆さんと記念撮影.
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