2012年10月3日水曜日

(尖閣問題の交渉経緯の真相.)矢吹晋.横浜市立大学名誉教授.) http://chikyuza.net/n/archives/26306 以下の資料1.から分かるように、第三回首脳会談で田中が尖閣を提起し、周恩来が「今、これを話すのはよくない」と棚上げ案を返答しています。外務省会談記録は、その趣旨を次のように記録しています。 資料1. 外務省が公表した「田中角栄首相、周恩来総理会談」記録によれば、第三回首脳会談1972年9月27日午後4時10分から、国際問題を語り、そのなかで尖閣を話した。 田中総理 「尖閣諸島についてどう思うか? 私のところに、いろいろ言ってくる人がいる」。 周総理 「尖閣諸島問題については、今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」。――『記録と考証、日中国交正常化』岩波書店、2003年、68ページ。 もう少し詳細な記録が欲しいところですが、この簡潔な要旨記録から明らかなように、田中は第三回首脳会談で尖閣を提起して、周恩来は、以上のように答えています。 その後、田中は翌日の第四回首脳会談で再度、尖閣を提起しました。この日の田中と周恩来のやりとりを外務省記録は削除しました。誰が削除したかは明らかです。削除した本人が、清水幹夫に対して、後に真相を語っています。以下の資料2.の通りです。 資料2. さらに、第四回首脳会談1972年9月28日午後3時からの首脳会談で「台湾問題が結着したあと」、周首相が「いよいよこれですべて終わりましたね」と言った。ところが「イヤ、まだ残っている」と田中首相が持ち出したのが尖閣列島問題だった。周首相は「これを言い出したら、双方とも言うことがいっぱいあって、首脳会談はとてもじゃないが終わりませんよ。だから今回はこれは触れないでおきましょう」と言ったので、田中首相の方も「それはそうだ、じゃ、これは別の機会に」、ということで交渉はすべて終わったのです。――橋本恕の2000年4月4日清水幹夫への証言、大平正芳記念財団編『去華就実 聞き書き大平正芳』2000年。『記録と考証、日中国交正常化』岩波書店、2003年、223-4ページに再録。 明らかに、田中が再度問題を提起して、周恩来が「双方とも言うことがいっぱいあって、首脳会談はとてもじゃないが終わらない」という理由で、棚上げを提案し、田中が同意した。これが田中・周恩来会談の隠された真実です。 このやりとりを指して、中国側は「黙契」・「共識」(共通認識の意)と呼んでいます。 「黙契や共通認識はなかった」とする日本政府の主張は、田中・周恩来会談の真相をゆがめるものです。中国はいま、日本政府の認識と尖閣国有化は、田中・周恩来会談における棚上げを反故にしたものと非難しています。 改竄された外務省記録をもとに戻すことが必要です。当事者の橋本恕中国課長(のち中国大使)は「1972年の真実」を28年後の2000年になってようやく告白した経緯を知らない日本人は、「尖閣問題の棚上げ」「尖閣問題についての共通認識」はなかったと受け取り、「尖閣は日本固有の領土だ」とする一方的理解だけが刷り込まれてしまったのですが、これを是正することが必要です。 以下に三つの関連資料を挙げます。一つは、いわゆる竹入メモの筆者竹入義勝の回顧録。もう一つは、国交正常化6年後の1978年に来日した鄧小平記者会見の尖閣についての発言です。周恩来の認識と鄧小平の認識は、基本的に同じです。「尖閣は日本固有の領土だ」とする日本側主張に対して、「釣魚島は中国固有の領土だ」と主張しています。そして両者の立場表明を前提としつつ、棚上げで合意しているのです。この合意を日本政府が否定したことによって、国交正常化当時の約束が反故にされたと中国は主張しているわけです。田中・周恩来会談において、「中国側は領有権主張を行わなかった」とする解釈は、明らかに間違いであり、そのような記述を行った服部龍二『日中国交正常化』(中公新書、2011年)に、アジア・太平洋賞特別賞を与えた『毎日新聞』や、大佛次郎論壇賞を与えた『朝日新聞』は、日本世論をミスリードした責任を免れないのです。最後に2年前の国会論議を一つ。大平も園田も、野田政権みたいな独善的態度ではなかったことは明らかです。 資料3. 当時公明党委員長として田中訪中へのメッセンジャー役を務めた竹入義勝は、次のような証言を残している。 尖閣列島の帰属は、周首相との会談で、どうしても言わざるを得なかった。「歴史上も文献からしても日本の固有の領土だ」と言うと周首相は笑いながら答えた。「竹入さん、われわれも同じことを言いますよ。釣魚島は昔から中国の領土で、わが方も見解を変えるわけにはいかない」。さらに「この問題を取り上げれば、際限ない。ぶつかりあうだけで何も出てこない。棚上げして、後の賢い人たちに任せしょう」と強調した。――『記録と考証、日中国交正常化』岩波書店、2003年、204ページ。 1978年の尖閣合意(コンセンサス、共識)について。 資料4. 1978年8月10日、園田外相が訪中して北京で、鄧小平・園田会談が行なわれた。尖閣についてのやりとりは、張香山著『中日関系管窺与見証』によると、以下の通り。なお、日本外務省の会談記録は、尖閣の箇所を削除したものしか発表していない。 ・中日両国間には若干の懸案がないわけではない。たとえば、日本は尖閣列島と呼び、中国は釣魚島と呼ぶ、この問題もあるし、大陸棚の問題もある(我們両国併不是不存在一些問題的。比如你們説的尖閣列島,我們叫釣魚台問題,還有大陸架問題)。 ・日本では一部の人がこの問題を利用して『友好条約』の調印を妨害したではありませんか。わが国にも調印を妨害した人がいないわけではない。たとえばアメリカに留学し、アメリカ国籍をとった者、一部の華僑たち、彼らの中に「保釣」運動がある。台湾にも「保釣」運動がありますよ(但在你們国内不是有一些人企図挑起這様的事情来妨礙和平友好条約的簽訂嗎?我們中国人也不是没有這種人,比如説,我們留美的,加入美国籍的,有些還是華僑,不是有一個保釣島嗎? 在台湾也有"保釣"呢!)。 ・この種の問題は、今引っ張りだしてはいけない。『平和友好条約』の精神がありさえすれば、何年か放って置いておいて構わない。何十年か経って協議整わずでもかまわない。まさか解決できなければ、仲違いでもないでしょう(這様的問題現在不要牽進去, 本着「和平友好条約」的精神, 放幾年不要緊, 很可能這様的問題,幾十年也達不成協議。達不成,我們就不友好了嗎?) ・釣魚島問題は片方に置いてゆっくりゆうゆうと考えればよい。中日両国間には確かに懸案はある(要把釣魚台問題放在一辺,慢慢来,従容考慮。我們両国之間是有問題的)。 ・両国は政治体制も置かれている立場も異なる。いかなる問題でも同じ言い方になるのは不可能だ。とはいえ、同時に両国は共通点も多い。要するに、『小異を残して大同に就く』 ことが重要だ(我們両国政治体制不同,処境不同,不可能任何問題上都是同様語言。但是我們間共同点很多,凡是都可以「求大同,存小異」)。 ・われわれは多くの共通点を探し、相互協力、相互援助、相呼応する道を探るべきです。『友好条約』の性格はつまりこのような方向を定めている。まさに園田先生のいう新たな起点です(我們要更多的尋求共同点,尋求相互合作,相互幫助,相互配合的途径)条約的性質就是規定了這方向,正是你説的一個新的起点)。 これを受けて、園田は次のように応じた――鄧小平閣下がこの問題に言及されたので、日本外相として私も一言発言しないわけにはいきません。もし発言しないとすれば、帰国してから申し開きできない。尖閣に対する日本の立場は閣下がご存じの通りです。今後二度とあのような偶然[張香山注、中国漁船隊が尖閣海域に侵入したこと]が起こらないよう希望したい。私はこの一言を申し上げたい(你談了這個問題,我作為日本外相,也不能不説一点。如果不説,回去就不好交代。関于日本対尖閣的立場,閣下是知道的,希望不再発生那様的偶然事情 指中国捕魚船隊,一度進入釣魚島海域,我講這麽一句)。 これを受けて、鄧小平は次のように応じた――この種の事柄を並べると、われわれの世代の者には、解決方法が見出せない。次の世代は、その次の世代は、解決方法を探し当てることができるでしょう(把這様的事情擺開, 我們這一代人, 没有找到辦法, 我們的下一代,再下一代総会找到辦法解決的)。 ――張香山著『中日関系管窺与見証』当代世界出版社、1998年 園田外相の訪中を踏まえて友好条約が調印されたので、その批准書交換のために鄧小平の訪日が行なわれた。鄧小平は1978年10月25日日本記者クラブで、記者会見を行った。その発言趣旨は、資料4.と酷似している。つまり、北京における園田・鄧小平会談を踏まえて、資料5があることは明らかだ。 資料5. 鄧小平副首相 尖閣列島は、我々は釣魚諸島と言います。だから名前も呼び方も違っております。だから、確かにこの点については、双方に食い違った見方があります。中日国交正常化の際も、双方はこの問題に触れないということを約束しました。今回、中日平和友好条約を交渉した際もやはり同じく、この問題に触れないということで一致しました。中国人の知恵からして、こういう方法しか考え出せません。というのは、その問題に触れますと、それははっきり言えなくなってしまいます。そこで、確かに一部のものはこういう問題を借りて、中日両国の関係に水を差したがっております。ですから、両国政府が交渉する際、この問題を避けるということが良いと思います。こういう問題は、一時棚上げにしてもかまわないと思います。十年棚上げにしてもかまいません。我々の、この世代の人間は知恵が足りません。この問題は話がまとまりません。次の世代は、きっと我々よりは賢くなるでしょう。そのときは必ずや、お互いに皆が受け入れられる良い方法を見つけることができるでしょう。――鄧小平記者会見「未来に目を向けた友好関係を」1978年10月25日日本記者クラブホームページhttp://www.jnpc.or.jp/files/opdf/117.pdf 資料4.と資料5.で得られた「合意、共識、コンセンサス」は、その後、国会でどのように認識されていたかを示す資料を一つだけ掲げる。 資料6.衆院安保特別委(2010年10月21日)の議事録。 船長逮捕事件における前原誠司発言が出た際の、民主党議員の質問です。「棚上げ」を園田直外相も大平正芳首相も認めていたと紹介しています。 ○神風英男委員(民主)=(野田内閣・野田改造の防衛大臣政務官) 日本としては、(棚上げ)合意がないという立場であろうと思います。ただ、当時大平内閣のもとで、当時の沖縄開発庁が調査団を尖閣諸島に派遣した、この調査に関して、中国 が、鄧小平副首相との合意に反するという抗議があったわけであります。これを受けて、衆議院の外務委員会において、当時の園田直外務大臣がこのように述べられている。 「日本の国益ということを考えた場合に、じっとして今の状態を続けていった方が国益なのか、あるいはここに問題をいろいろ起こした方が国益なのか、私は、じっとして、鄧小平副主席が言われた、二十年、三十年、今のままでいいじゃないかというような状態で通すことが日本独自の利益からいってもありがたいことではないかと考えます。」 こういうように述べられているわけでありまして、いわば棚上げ状態にしておくことが日本の国益にも合致するんだというような趣旨のことを当時の園田外務大臣が述べられ、また、いろいろその当時の議事録を拝見しますと、大平総理も同じような立場に立っているようであります

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