2012年10月25日木曜日

(冷笑に負けない~福島市の母子が味わった被曝と自主避難への強い風当たり) http://ameblo.jp/rain37/entry-11381370550.html 幼い家族を守ろうと、周囲の冷笑にもめげずに暮らしている親子が福島市内にいる。子どもたちの被曝回避を口にすれば露骨に変人扱いされ、自主避難先から戻ってきたことを裏切り者のように中傷される。この1年半の苦しみを、母子は涙ながらに語った。原発事故直後、安全ばかり強調した国や県。自主避難者への偏見と無理解…。話すほど怒りは高まるが、母子の願いはただ一つ。「幼い家族を守りたい」 【避難先で浴びた質問「東電からいくらもらった?」】  子どもを守るのに、どうしてこんな想いをしなければならないのか。  A子さん(35)は母子避難先の山形県南陽市では「東電からずいぶんと金をもらったんだろ」と質問攻めに遭い、避難を中断して帰った実家のある町内会では「何で戻ってきた?」と責められた。小学4年生になった娘は「どうせもう、被曝しちゃってるんだから、しょうがないんでしょ」と口にする。  娘との母子避難が実現したのは、昨年10月のことだった。  娘が限界に達していた。日々、被曝を最小限に抑えようと注意することが増えていたA子さんとぶつかることが多くなっていた。  「もう被曝しているんだから、どうせ病気になるんだから、土でも何でも触らせてよ」  南陽市への避難が決まったときには、娘が誰よりも喜んだ。自由を謳歌した。「これで、やっと空気を吸える」「土を触っても良いんだよね?」「水道水を飲んでも良いよね?」。冬になると積もった雪に大喜びして遊んだ。A子さんは当初、半年ほどで福島市に帰ろうかと考えていたが、気づけば半年をあっという間に過ぎていた。だがしかし、母子ともに徐々に気持ちが後ろ向きになっていた。避難生活は10カ月で終了した。  「年配の方には非常に親切にしていただきました。でも、多くの人が『福島の人は東電からいくらもらっているの?』と好奇心丸出しで聞いてくるんです。次第に福島から来たといえなくなってしまいました。知り合いになった福島の人と公園で話していれば『山形には、昼間から公園で遊んでいるお母さんはいないよ』と陰口をたたかれました。結局、よそ者なんですね。周囲の方が温かくしてくだされば、もう少しは避難生活を続けられたかな」  娘は多くは語らなかったが、転入した小学校でつらい思いをしているようだった。別の地域に転居しようかと考えたが、避難者には「1県1アパート」の原則がある。A子さんは民間借り上げ制度を利用したので、光熱費だけの負担で済んでいた。そのため、転居するなら家賃を自己負担するか山形県以外の県に移るかの選択を強いられた。持参した線量計は、アパートの周囲の地面に置くと0.3μSVを示した。自宅周辺の除染が始まるとの情報もあった。「福島市と大差ないのなら帰ろうか」。娘もうなずいた。失意のまま、母子は今年4月、福島市の実家に戻った。原発事故から1年が経っていた。 民の声新聞-山形に避難 避難先で被曝を心配せず雪遊びをしたA子さん の娘。しかし、避難生活は10カ月で終了した 【被曝より避難より水や食料、だった事故直後】  A子さんの母親・B子さん(55)は当初、原発が爆発したと聞いてもピンとこなかった。 今まで原発のことなど意識したことがなかったし、第一、事故が起きたからといって、60km以上も離れた福島市にまで放射性物質が飛んでくることなんて無いと思っていた。そんなことより、今日一日の食料を、水をどうするか。大地震以降、その日その日を生きるのに精いっぱいだった。近所のヨークベニマルは、夜になっても水や食料を買い求める人でごった返していた。誰もが今日を生きることしか頭になかった。被曝のことなど、頭の片隅にすら無かった。そんなとき、思わぬ話が舞い込んできた。  「え?避難?事態はそんなに深刻なの?」  息子の勤める福島市内の外資系保険会社に、東京本社から「バスを用意するから避難したい人は申し出るように。ホテルでの宿泊代も会社で負担する」とのメールが届いたのだ。マスクも1年分用意するという。3月14日のことだった。  自宅のテレビでは、地元テレビ局のアナウンサーが「レントゲン撮影と同程度の放射線量ですから大丈夫ですよ」と呼びかけている。枝野幸男官房長官(当時)は「ただちに人体に影響ない」と繰り返していた。避難するべきか、B子さんは大いに悩んだ。家族会議も開いた。しかし結局、いつまで避難生活が続くのか先が見えないこと、逃げることで周囲に大げさに映るのも嫌だということからバスへの乗車を見送った。後で確認したら、会社が用意したバスに乗った社員や家族は一人もいなかったという。  「国もメディアも、被曝の危険性をきちんと教えてくれれば孫も守ってあげることができたのに…」  インターネットを通じて同じ福島市渡利地区の高濃度汚染が伝わってきたのは4月に入ってからだった。家族間で被曝の話題が増えるようになった。孫は少し遅れて新学期が始まった小学校への通学を再開していた。自宅の周囲の放射線量は18-20μSVもあった。テレビでは、内閣官房参与・小佐古敏荘氏が涙ながらに開いた記者会見を伝えていた。 原発事故直後よりは下がったとはいえ、いまだに 0.8-0.6μSVもの放射線量を計測する福島市内 の文知摺観音付近。放射線や被曝の話をすると 「変人扱いされる」とB子さんは話す 【避難者は裏切り者、というレッテル】  母子3代で味わった自主避難の苦労。  「こんなにいじめられるくらいなら、いっそのこと原発事故の爆発でひと思いに死んでしまった方が良かった」とA子さんは話す。「子供を守るための避難で苦労をしていることがメディアでぜんぜん報じられないのが悔しいです。政府の指示も無いのに勝手に避難している、大丈夫だと言っているのに避難しているという位置づけでしょ?子どもを守りたいだけなのに」。  B子さんは、所有する600坪もの土地を、除染で生じた汚染土の仮置き用に使ってほしいと市に申し出たが、いまだに実現していない。これまで家庭菜園として活用してきたが、汚染を思うと野菜作りをする気分にはならない。「自宅の敷地内に仮置きすると言っても、庭の無い方もいるでしょう。そういう方に使ってもらいたいのですが、行政の腰は重いですね」。おまけに、子どもたちを被曝から守ろうと声をあげると、町内の住民から面と向かって「頭がおかしい」と誹謗されるという。B子さんらが暮らす自宅の庭では、私の線量計は0.7μSVを超した。  「国も県も嘘つき。初めに本当のことを言えば良かったんです。専門家は今からでも良いから本当のことを言って欲しい。孫を守りたいんです」 A子さんには、娘の通う小学校の保護者から「よくも戻って来られたな」とののしられた。「そんなに被曝を気にするのなら帰って来なければ良かったのに」とも言われた。避難すると張られる「卑怯者」「裏切り者」のレッテル。苦しみ悩んだ末に戻ったふるさとで受ける仕打ちにA子さんもB子さんも涙が止まらない。これがすべてではないが、これもまた、被曝地・福島の一つの現実。A子さんはつぶやいた。  「やっぱり私は裏切り者なのかな…」

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