2012年8月7日火曜日

ドキュメント「放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして」書き起こし. http://gennpatyu.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/nhkx-939e.html 友人が見つけてくれたこの放送の動画です。合わせてご覧下さい。 http://www.veoh.com/watch/v274059643k9c58ME   以前から保存していたわたしの一番大事な動画が、この放送内容の続編に当たるのではないか?と思い出しました。第五福竜丸事件のその後、日本の女性たちの勇気ある頑張りが描かれています。こちらも是非ご覧になっていただきたいです!  ~母親たちの反核運動~3000万の署名、大国を揺るがす~(第五福竜丸が伝えた核の恐怖) http://www.youtube.com/watch?v=rdtAG64FbYI  --------------------------------------------------------------------- ↓ここから書き起こし  (福島原発爆発映像)2011年3月、原子炉から放出された放射性物質がばら撒かれました。一般市民に向けられる線量計。繰り返される「ただちに健康影響は無い」という言葉。(線量計を向けられる子供の姿)目に見えぬ放射能の恐怖に人々は不安を抱いたままです。しかし今から58年前、同じこの日本で線量計が人々に向けられたことは知られていません。そして日本全土が放射性物質でスッポリと覆われたことも。救済されることなく死んでいった多くの人々がいることも。  元高校教師 山下正寿さん(67歳)  アメリカが太平洋で行った、水爆実験による放射能被害を27年に渡り調査してきました。  撮影したフィルムには被曝した漁師たちの証言が記録されています。  ●漁師①「ピシャーンと目を奪われるぐらいピカーンと、これはどうしたんやろと。そうしたところ真っ赤になって。」  ●漁師②「ピカッとキノコ雲が出て、水平線から水平線までいった。サーッと全部。」    1954年(昭和29年)3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験。  広島型原爆の1千倍の破壊力を持つ水爆が、マグロ漁船・第五福竜丸を襲います。死の灰によって乗組員は被曝。6ヵ月後、通信長の久保山愛吉さんが急性放射能症のため急死。いわゆる「第五福竜丸事件」です。しかし、放射能で汚染された「死の海」にいたのはこの船だけではありませんでした。    ●第二幸成丸乗組員①「全員ガイガー計数器といいますか、あれでこう測られた。針はプッと振り切れてますわね。」  ●第二幸成丸乗組員②「私が測られた頭で、1500(カウント)と言われた。」  ●第二幸成丸乗組員③「ガイガー測定器メーターいっぱい振り切ったね。もう体一帯どこもかしこもね。」    キャッスル作戦と名づけられた水爆実験は、3ヶ月の間に6回行われました。    ・1回目 1954.3.1 ブラボー   ・2回目     3.27 ロメオ       ・3回目     4.7  クーン       ・4回目     4.26 ユニオン      ・5回目     5.5  ヤンキー      ・6回目     5.14 ネクター        セシウム・ストロンチウム・ヨウ素・プルトニウムなどが海を汚染。さらに上空に吹き上げられた多量の放射性物質が漁船を襲いました。やがて多くの乗組員たちが次々と死んでゆきます。    ●新生丸乗組員の妻「窓を開けて血をポッタリ吐いて死んでいた。」  ●新生丸乗組員「その船に乗っていた人間がどんどん50代60代で亡くなって。」  ●第二幸成丸乗組員の妻①「もう皆、若くしてね、亡くなってしまったから。ほとんど亡くなりましたね。」  ●第二幸成丸乗組員の妻②「バタバタバタと亡くなっていったんだよね。」  ●第八昇栄丸乗組員「皆早く死んでしもうた。」  ●尾野スミエさん「私の兄と姉婿と乗っていた皆が亡くなってしもうた。私の夫は兄と一週間違いで亡くなった。2年前ぐらい前に姉婿が亡くなった。夫は背中が痛いと言い出して病院に検査にいったらもう手遅れでね、すい臓も肝臓もガンで侵されていてね。」    高知県土佐清水市に放置されていたマグロ漁船「第五住吉丸」はかつて第五福竜丸と同じ海で操業していました。  1987年、見つけたのは高知県で教師をしていた山下さんと生徒さんたちでした。  住吉丸は本当に被曝したのか?残留放射線の測定を試みます。  バリバリバリバリ・・(測定器の音)「うわあ、どういうこと?怖いね、これ」←大人も子供も真剣な顔で見ている。  バリバリバリバリバリバリバリ・・・(測定器の針が振り切れる)    35年が過ぎているにも関わらず、船体からはセシウム134・ストロンチウム90などが検出されました。  調べてみると、乗組員11名中8名がガンのため亡くなっていたのです。山下さんは50代の男性が何人も亡くなっていることを知り、衝撃を受けます。    ● 山下さん「教師になって帰ってきてこの事件にぶつかりましたから、第五福竜丸だけのはずなのにおかしい。しかも自分の身近な人が関係しているということは、すごく緊張感がありましたからね。人の問題ですからね、漁船の救済どこもしないですからね、誰かがやらなければならないことですよね。」    1985年、山下さんは仲間の教師や高校生たちと共に被災者の聞き取り調査を行いました。  救済されることもなく口を閉ざしてきた漁師たち。高校生の懸命な姿が生存者や遺族の心を開いていきました。  被曝した魚を水揚げした船は、東北から九州まで全国に渡っていました。その内、高知県の船が1/3。  3年にわたる調査の結果、高知県内で消息がわかった乗組員が241名。被曝から34年すでに1/3が死亡していたのです。    (調査用紙に残された生々しい証言)  ●第八順光丸 乗組員「実験直後めまい・ヤケドあり。」  ●第七大丸  乗組員「歯茎から出血。白血球少ない。」  ●第一徳寿丸 乗組員「キノコ雲を目撃。二週間後脱毛が起こり、顔が真っ黒くなる。」  ●第八順光丸 乗組員「だるさ・脱毛」  ●第二幸成丸 乗組員「29歳で被災、脱毛が起こった」  ●第七長久丸 乗組員「水爆との関連は不明だが、機関長は2年ほど前に胃ガンで死亡。甲板長は30歳で胃ガンで死亡」    《漁師たちの無念を晴らしたい》山下さんの活動は、高校教師を辞めた後も続いていました。  (長崎県南島原市口之津町の平三義さんの妻、平チミさんのお宅)  当時ビキニ海域にいたのはマグロ漁船だけではありませんでした。貨物船「弥彦丸」の乗組員・平三義さんは40歳の時、岡山大学付属病院で放射性物質による白血球減少症の疑いとの診断を受け、被爆者健康手帳の交付を求めます。  しかし、長崎・広島の被爆者でないというだけで申請は却下されたと言います。    ●山下さん「体はだるいゆうて、よく言われたんですね?」  ●チミさん「そうですねえ、もうキツイキツイゆうてからですね、寝たり起きたり寝たり起きたり」  ●山下さん「もうちょっと早ければよかったんですけど、今からでもすごく調べたいと思っていますので・・」  ●チミさん「もう(生存者は)口之津にはいられないですもんね、3人、4人いられたんですけどね。」  ●山下さん「まあでも大変でしたよね、ずっとそうやって看病したり病院に行ったりせないけんのはねえ。」  ●チミさん「運命と思わにゃ仕方ないですよね、苦労しました。そっちこっちにね、病院通いばっかりだったです。」    ●山下さん  「漁民の体を通して、ガンとか心臓発作とかそういう病気を通して《なぜ俺はこんな目にあって死ななきゃいけないのか》 という想いをずっと積み重ねられているわけですからね。その時初めて明らかになるという、そういう意味で怖いですよね。何十年も経たないと明らかにならないという、何十年経ってやっと漁船員の死を通して立証されようとしているということですから。」    調査中、山下さんは被曝の実態解明につながる重要な手がかりに出会います。それは「第二幸成丸」船長の崎山秀雄さんが記録した漁業日記でした。通常、航海が終わると廃棄される漁業日記。偶然発見されたこのノートから船の位置や操業の様子、被害の実態をたどることができたのです。  ◎日記「1954年(昭和29年)2月24日晴れ、14時30分浦賀出航。一路マーシャルへ。」   紙テープで彩られた浦賀港、航海の無事と豊漁を願って駆けつけた家族に見送られ、第二幸成丸は2週間を掛け南太平洋を目指します。    ◎日記「3月1日、連日向かい風強く引き続き続行中。」  出航して6日目の3月1日、アメリカは一回目の実験となる水爆ブラボーを爆発させます。第二幸成丸の通信長・山下昇一さんの無線を傍受。「第五福竜丸が死の灰を浴びた」      ●第二幸成丸の山下通信長の妻・山下尚子さん  「もう自分がツーツー(無線)でやってるでしょ、それでもうその時にわかったらしい。福竜丸が(死の灰を)被ったということ、彼らがやられたということを無線で聞いたらしいです。灰を被ったということをね。ほんで(爆心地に)一番近くにいることもわかるでしょ?わかって船員には伝えたらしいです。」  ●第二幸成丸の乗組員・有藤照雄さん  「通信長が『静岡の船が空から灰のような物が降ってきて、珍しいとみんな拾ったらしい』ゆう話を聞いたんですよ。」    第五福竜丸が死の灰を浴びて岐路を急いでいた頃、第二幸成丸はマーシャル諸島に向け船を進めていました。アメリカが決めた危険区域を避け、3月11日からマグロ漁を始めます。操業中の3月27日、アメリカは2回目の水爆ロメオを爆発させます。33kmの上空に吹き上げられた放射性物質が、第二幸成丸にも降り注ぎました。    ●第二幸成丸の山下通信長の妻・山下 尚子さん  「こう雲といいますか、あのあれはね遠くから見たそうです。ほんでやっぱり離れてるけど(死の灰を)被ってたらしいですね、船も。」  ●第二幸成丸の乗組員最年少当時19歳・桑野浩さん  「鮮明に覚えているのはまず飯の鐘が鳴るでしょ、ダーっと若い人がトモ(船尾)に走って行くあの時にパラパラと降っているなということが何回もあったんですわ。生存されている方は同僚では私と同じようにきちっと帽子を被って合羽を着て、ある程度防護はしてましたね。まともに灰を体に入れた人はやっぱり早死にしてますね。」  ●第二幸成丸の乗組員・松野繁樹さんは知らず知らずの内に除染をしていました。  「ブリッジの上とかマストとか煙突ね、漁具を置いてあるとこね、そこなんかは水を掛けたけどね、水に流されてね水のはけ口に(死の灰が)溜まっとったんですね。ま、それは覚えてますわ。」      乗組員たちは放射能で汚染されたマグロを食べ海水を浴び、死の灰の積もった船で30日間を過ごしました。  ◎日記「4月25日9時30分、浦賀にひとまず入港。15時東京魚河岸に係留、直ちに原子カウント検査」    第二幸成丸を待っていたのはカメラのフラッシュとガイガーカウンターのけたたましい音。港は騒然としていました。マグロに激しく反応するガイガーカウンター、命がけで捕ってきたマグロが目の前で廃棄処分される様子を第二幸成丸の乗組員は呆然と見ているしかありませんでした。    ●第二幸成丸の乗組員① ←紙に絵を描きながら説明 「放射能かかった魚は全部ここへ選別しましてね、ハシケ積んでから、だからどの船もこういう格好して捨てられた。」  ●第二幸成丸の乗組員②  「かためてトラックに積んでどこに捨てたかは知らんですわ。全部放棄ですよ。」  ●第二幸成丸の乗組員③  「こんな馬鹿げた話があるでしょうか。自分でもうね、ろくに睡眠もとらんと働いて捕ってきた魚を捨てるなんてもう考えられないですよ。」    第二幸成丸の被曝は新聞でも報じられました。読売新聞(1954年4月16日)に「築地にまた放射能船」  「方向探知機から4192カウント、乗組員の頭から224カウントの放射能反応が認められた。    ●第二幸成丸の乗組員①「私はね、ガイガー測定人を案内したんですよ。それで私の頭で1500(カウント)と言われた」  ●第二幸成丸の乗組員の妻・浜町霞さん「俺らも調べられたーゆうて。私は何カウントの放射線を浴びてたということも聞いてないしね」  ●第二幸成丸の乗組員②「ガイガー計数器といいますか、全部こんな全員こう(測定)やられたからね。針がもうプッと振り切れてますからね」    操業の様子や船の線量を細かく記録していた崎山船長。ところが日記には人体やマグロの線量は書きとめられていませんでした。これにはある理由があったのです。    (高知県室戸市)  ●第二幸成丸の崎山船長の妻・順子さん  「私たちもね、しゃべりたくないんですよ。こんな事をしゃべったって何にも無いづくで、あの漁協そのものはそれ(被曝)を公にせられると漁協も成り立たん、魚も売れん。そうすると何十隻もの漁船を抱えてるから、地域も成り立たん。その補償をもらうことよりも、まず今日明日の生活をどう守るかっていうことのほうが先やなかったんですか。だからその時分てゆうたらそこへ日本の国がやっと自分でこうつかまり立ちが出来るかというような情勢でしょ。で、その柱は何かゆうたら石炭と魚ですから、あんたらの思う感覚とは全然・・うん、そんな中で私たちはこういう経験をしてきてるからね、あんたたちが考えたらそら「崎山さんおかしいやか、そりゃなんでそういう何で・・」そんなん、その当時は。で、そういうことをおかしいやないかゆうて気づいてる人たちもあって『船員に補償がなけりゃいかん問題や』思った船員さんもおるかもわかりませんけんど、そんなことを口に出して言いでもしたら船に乗れません時代でした。それだけは言うときます。」←カメラを正面から見てハッキリ最後の言葉を言ってます    水爆実験後、海流により日本に迫る放射能汚染。日本近海の魚も被曝していました。その年、延べ992隻の船が被曝した魚を廃棄。6回に及ぶ実験で海の汚染は強まって行きます。    ところが水爆実験からわずか7ヶ月、日本政府は突然マグロの放射能検査を中止します。その4日後、次のような文書をアメリカと交わしています。「ビキニ被災事件の補償問題に関する日本側書簡」アメリカ合衆国政府は日本政府が前記の2百万ドルの金額を受諾する時は、全ての請求に対する完全な解決として受諾するものと了解します」日本円で七億1千万円、政府は2/3をマグロ関係者の損害に当て、残りは魚の廃棄に対する補償や第五福竜丸乗組員の治療費などに配分するとしています。日本政府は2百万ドルと引き換えに事件に幕を引き、その後すべてのマグロが食卓に上がったのです。    当時、口を閉ざすしかなかった乗組員たち。彼らはいったいどれぐらいの放射線を浴びていたのでしょうか。    (二本松市のアドバイザーを務める野口邦和さんの公演「放射能から家族を守る食べ方の安全マニュアル」風景)  この野口さんに乗組員の浴びた放射線量の算出を依頼しました。第二幸成丸から検出された4000カウントを元に乗組員が被曝した瞬間の放射線量を算出します。(算出はGM-10ガイガーミューラカウンタの線量率換算計数を利用しています)    計算中の野口さん「ああ、とんでもない数字になりますね」←独り言のような感じで  「えー方向探知機がまあ4000CPMの汚染があったと。これを3月27日のロメオ実験による汚染だとすると、時間当たり48.5ミリシーベルトになりますね。ですから例えば10時間そこにいるとね、約485ミリシーベルト、まあ約500ミリシーベルトですよね。500ミリシーベルトというと白血球が減り始める、そういう線量に相当します。10時間いるだけでも。やはり相当な被曝、急性障害が起きてもおかしくないような被曝がね、あった可能性が大ですよね、これは。」  第二幸成丸の乗組員22名、過酷な運命を背負った彼らは40代50代の若さで次々と亡くなっていったのです。    第二幸成丸の数少ない生存者の一人、有藤照雄さんは現在横須賀に住んでいます。偏見や差別を恐れ、長い間口を閉ざしてきました。  有藤さん「終戦当時だから紙が悪いね。第二幸成丸・・(←保険証か身分証?を見ながら)ずーっと50年間なんにも言わず自分の中だけに秘めて、経験したことを家族にも誰にも言わなかった。妹たちにも。」    その後、有藤さんは自分の経験を妻に明かしました。  妻・光江さん「米軍だってあれでしょう、そういう実験をして人体実験みたいなもんだよねえ。主人が放射能を受けてから子供が二人産まれてるじゃないですか?それで何にも子供はね、具合が悪いとか白血球が多いとか少ないとかそういうことも全然出ないし、だけどこの子達、父親に遺伝して体のどっかにあるんじゃないかなあ思って、私は本当死ぬまで心配だよね。」    そもそも被曝したことを認められていない有藤さんたちは、国から医療費などの支援を受けることはできません。乗組員やその家族は放射能の影響に怯えながら、生きて行かなければならないのです。  2年前、南海放送が入手したアメリカ原子力委員会の機密文書。そこには6回の水爆実験で生み出された放射性物質による汚染の実態が克明に記録されていました。「5月初期のヤンキーの実験の際、太平洋高気圧が強まり日本には大量の放射性物質が降下した。多分、夏と初秋の実験では日本は最も放射能汚染されるであろう。」    1954年3月1日、多くのマグロ漁船が操業する中、アメリカ原子力委員会は水爆ブラボーの実験を実施。放射性物質は東西に広がりわずか一週間でアメリカ本土にまで達しています。5月5日、5回目となる水爆ヤンキー。すると今度は日本が。徐々に日本列島を脅かす汚染地図。そして5月17日、日本は放射性物質にすっぽりと覆いつくされたのです。    放射性物質の広がりを示す地図に、第二幸成丸の航路を重ねてみます。  ・2月24日、 第二幸成丸は日本を出航。  ・3月1日、  ブラボーが爆発。  ・3月9日、  第二幸成丸は放射性物質の領域に突入。  ・3月11日、 死の灰を浴びながら操業。  ・3月27日、 2回目となるロメオが爆発、新たな放射性物質が乗組員を襲います。  ・4月1日、  操業を終えた第二幸成丸は岐路に着きます。    こうしてマグロ漁船の被曝は、当事者であるアメリカの機密文書によって裏付けられることになったのです。更に驚くべきことは実験の一年前、すでに122箇所の観測所が設置されていたことです。日本には三沢や東京など5箇所、被曝で苦しむ広島と長崎でもアメリカは  観測を行っていたのです。    ●日本大学専任講師・野口邦和さん  「えーアメリカはね、もう世界的な規模で汚染されることはわかってたはずですよね。というのはあのレポート見れば、えー120箇所か130箇所ぐらいにね、そういった測定地点を設けて、本当に世界的な規模でね、フォールアウトの影響を調べてますから。てことはあの世界的な規模でね、原爆実験をやればそれは汚染が広がると承知していたんだと思うんですね。」    広島私立大学の高橋弘子さんは、当時アメリカがある想定をしていたことを突き止めました。  ●高橋さん「これは私が核実験東京△△である原子力委員会の資料から入手してきた、あのー文書なんですけども何でこういう影響があったのかとそれを示す地図です。先ほどの航海地図を、この今度はワシントンDCを爆心地として置き換えたものがこの地図なんですけども。」    原子力委員会は水爆ブラボーがアメリカ本土で爆発したと想定し、どのような被害が出るかを検証していたのです。爆心地はワシントンDC、被害想定はおよそ200キロ離れたフィラデルフィア。    ●高橋弘子さん「(文書を見ながら)屋外にいた場合は100%が被曝して死亡率が50%、全ての人がまあ何らかの形のその病気になるというそういうことが述べられてます。」    久保山愛吉さんが亡くなった、あの第五福竜丸が被曝した位置がちょうどフィラデルフィアにあたります。アメリカは第五福竜丸事件からその2年後、核実験を再開。日本の漁船は汚染が続くその海でマグロ漁を続けたのです。そしてアメリカは世界最強の核兵器を手に入れたのです。    ●豊子さん「ああしんど、登れんようなった。」←日傘とリュックで、急な山道を登る年配の女性・豊子さんが映る。  高知県宿毛市、ここに生存者わずか2名という船がありました。  ●豊子さん「おじいさん、ようか来ました。」←ご主人(新生丸の乗組員)のお墓に着く。    11年前のこと岡本豊子さんが自宅に帰ると、夫の清美さんが玄関先に倒れて死んでいました。  ●豊子さん「今日は一人やないぞねえ。いっつも一人やきに。」「昨日きて長いことお話ししちょるきに。」←お墓のお掃除をしながら。    6人の仲間たちとこの高知からマグロ船に乗り込んだ夫・清美さん。マグロ船・新生丸もまた死の灰を被った船です。次々と死んでゆく仲間を見送り、自らも病と闘った末に亡くなった清美さん。闘病生活を支えた豊子さんは、果たすことの出来なかった夫のその無念を  知っています。    事件から34年が過ぎた1988年救済を求め、全国初となる「被災船員の会」が高知県に発足します。代表世話人となった清美さん。  議会に働きかけ医師と連携し、自分たちで健康調査を行いました。被曝の事実を国に認めさせたい、しかし夫は生前妻の前で意外な言葉をもらしていました。  ●豊子さん「絶対これ(事件の解明)は成功はせんねゆうて、ゆいよりました。」  ●インタビュアー「これは成功せんというは、どういう・・・?」  ●豊子さん「(苦笑)これは成功せんでしょう、これは国が相手やきに。自分らのあれでは出来んことやもんねえ。ねえ、そうやかね。国相手やから自分らがどう思っちょってもなかなか・・・。まあ元気でおっただけ幸せ・・、直に亡くなった人もおるしねえ。」    被災船員の会はその後、会員の死亡が相次ぎ解散を余儀なくされたのです。    新生丸の乗組員のお墓は港を見下ろす小高い丘の上に並んでいました。←豊子さんの案内で乗組員たちのお墓へ。  ●豊子さん「ここです、昭和58年の5月の28日か。61歳て書いてある、61歳。」  ●インタビュアー「若いですねえ。」  ●豊子さん「昭和58年6月の16日、52歳。52歳。」  ●インタビュアー「若いですね。」  ●豊子さん「この人もガンやった。」    被曝の事実を認められないまま亡くなっていった乗組員。新生丸に乗った男たちは19名、すでに17名が死亡しています。    (東京都内、全日本海員組合を尋ねる山下さん)  調査を始めた頃、40歳の現役教師だった山下さん。ビキニ環礁での被爆事件を解明し、被災者を救済したいと今も活動を続けています。  ●組合員「週に1回ぐらい出よったんですよ、この当時。今は月3回ですね。」←海員しんぶんを見ながら。 現在は、乗り組員たちが被爆者健康手帳を交付されるように働きかけています。  ●山下さん「広島・長崎以外でも、明らかにビキニ被災によって影響を受けた人間に原爆手帳を申請してくれと。こういうことをほとんど人に知られていないので、やっぱりあの是非海員組合としても引き続きですね、また取り上げてもらったらと思うんですけども。」  ●組合員「そうですね」    (高知県教職員組合・青年部の激例会にて)  ●山下さん「マグロ漁してたというだけでなくてね、第五福竜丸ほどではないけど火の玉を見たという、いわゆるあの爆発を見たという人が10数人いました。この問題はなかなか・・・」    事件から58年、残された時間はありません。    (旅館?の部屋に帰宅した山下さん)  ●インタビュアー「こんなにしんどい思いして(事件に対する認識が)変わりますかね?」 ● 山下さん「(日本酒?を飲みながら)ははは、それはやってみないと分からないから。そんなに急に変わるなんて初めから思ってはせんよ。ちょっとずつコツコツ穴を開けるようにせないけん。谷川でねえ、カニが穴開ける。赤い子のカニが。それが堰を切る時があるんだよ。セメントで固めたものにね、カニが穴開けてね。赤い子がおったらイカンゆうてね、赤い子がね、セメントを破って穴を開けるっていうね、まあそんな気持ちよ。はははっ」  ●インタビュアー「先生は赤い子ですか?」  ●山下さん「そう、赤親やけんど。ははははは。まあいずれ変わるときが来るだろうと思ってやらんと、しんどうてできんよね。」    日本中を放射性物質が覆ったあの日からおよそ60年。(福島原発の爆発映像)またこの日本に放射性物質が降り注ぎました。    ●第二幸成丸・崎山船長の妻 順子さん  「そーら今でもそうやか、あの出しよる(発表している)その記者会見じゃなんじゃらでゆうもんも、私たちが知りたいこととあの人らの言うことは違うように私は思うけんど。うん、だから私らがなんぼそんな話(ビキニ事件)したって、そんなの(誰も)知らんことやきん。ただ、いつの時代にも弱い者にシワ寄せが来るというのは、いつの時代も一緒。うん、いつの時代も一緒や!」    被曝したことを認められず、原因さえわからないまま死んでいった多くの乗組員たち。事件から58年、彼らは自らの死を通して無言のメッセージを送り続けています。  ↑書き起こし終わり  -----------------------------------------------------------------------   【お願い】これをお読みになり、また動画をご覧になられて、同じように衝撃を受けられた方にお願いします。出来る限りの拡散をしていただけないでしょうか?忘れ去られてはいけない事実があることを、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいのです。 (ネクタリーナ)

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