2012年8月7日火曜日

【論文】ロシアの官民協調型の市民運動(御用デモ)「ズバートフシチナ」はなゆ-さんから.) http://www.facebook.com/hanayuu999/posts/411463002245745 (ズバートフ主義~zubatovshchina) 20 世紀初頭のロシアで労働問題に関連してとられた政策。具体的には,当時の高揚した労働運動を弾圧のみでは押さえきれないとみた治安当局が,保安部の監視の下で一定の合法化された労働者活動を許し,それによって労働者の急進化を阻止し,体制側にひきつけようとした動きをいい,モスクワ保安部長官ズバートフ Sergei V.Zubatovの発案になるのでこの名で呼ばれた。1901年,モスクワで最初の官製組合がつくられ,以後ミンスク,キエフなどにもつくられた。 ズバートフは、労働者の運動をなくすには、彼らを扇動するインテリと労働者を切り離し、政府が派遣したスパイ労働者を使って政府御用労働組合を作り、政府と労働組合の両者でシャンシャンとことを運べば、労働者と政府の軋轢は穏健に解決すると考えたようです。ところが、この「警察社会主義」は、むしろせっかく作った組合に社会民主主義者が潜入しストの拠点と化してしまったりしてやっぱりうまくいきませんでした。 こういうわけで、ズバートフは内相プレーヴェによって追放されてしまいました。 ☆血の日曜日事件 (1905年) http://j.mp/Ph1Ee2 1905年1月9日は日曜日で、請願行進はガポン神父に主導された。ガポンはロシア正教会の司祭であると同時に、国家秘密警察の給与を受ける工作員であったともいわれている。 (略) 当局は軍隊を動員してデモ隊を中心街へ入れない方針であったが、余りの人数の多さに成功せず、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した。 (略) ガポンが事件以前から組織していた労働者の集会は即日解散させられ、ガポンは直ちにロシアを離れた。 ガポン神父はサンクトペテルブルクの労働者を集め、労働者組織を作り上げた。組織の目的は産業革命が始まりつつあったロシアの労働者の権利を保護し、モラルと信心を高める事にあった。組織は規模を急拡大させ、12の支部に8,000名の構成員を数るまでになった。 (脚注:これらのガポン神父の活動にはロシアの秘密警察オフラーナの資金が用いられていたと言われている。) (略) 1905年1月22日(ユリウス暦1月9日)前日のゼネラル・ストライキに続き、ガポン神父の組織した労働者たちが冬宮にいるニコライ2世への嘆願を目的にペテルブルクの大通りでデモを行っていた。この列に警備部隊が発砲し、数千人の犠牲者がでた。 ▼世界の労働運動の歴史~ズバトフ労働組合(ロシア)▼ http://www.mcg-j.org/mcgtext/sekaino/sekaino.htm このような“違法”な労働組合の活動、ストライキに対してツアーリ専制政府のとった第一の対応が警察、軍隊等の暴力装置による強権的な弾圧であったことは言うまでもない。 だが頑迷なツアーリ反動政権と言えども、単なるムチだけでは労働者を抑え込むことが出来ないことを知らされたのだ。実際、失業や賃金の切り下げが餓死状態に直結する当時のロシア労働者は、闘うことなくして生きる途がなかったのである。 専制政府が打った手は上からの労働者の組織化である。それまで社会主義政党は勿論のこと、ストライキや労働組合は非合法であった。非合法であろうとも、労働組合は社民党の協力の下、強固な闘いを展開していた。ツアーリ官憲はこの急進的、革命的組合活動を抑え込むためにまず組合指導部から急進派、社会主義派を追放しようとしたのである。元々非合法の組合に“追放令”を出した所で何の意味もない。戦闘的指導部と労働者大衆を切り離し、大衆に一定の幻想を与え、 “穏健な”活動に留めるには官製の労働組合が不可欠である。権力の側が労働者を囲い込むために“労働組合”を組織するのである。こうした組合はその後ズバトフ型労働組合と呼ばれるようになったが、その由来は、ロシアの憲兵大佐スバトフが創始者であったからである。1905年の革命の発端となった血の日曜日事件の“主役”坊主ガボンが組織したペテルブルク工場労働者協会もこうした組織の一つであった。 ☆Sergei Vasilyevich Zubatov (官製労働組合の組織化による帝政ロシア労働者の懐柔・囲い込みに邁進していた保安部長官セルゲイ・ズバートフ)

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