2012年11月17日土曜日

重要な資料!必読!(広島原爆で無事に生き延びた人たち.1次放射能症の症状など.) http://eichinoyakata.blog47.fc2.com/blog-entry-297.html 私は終戦当時、軍医見習尉官として和歌山市郊外の加多町で小さな派遣隊の防空壕掘りに従事していた大阪海兵団所属の国民兵の救護に当っていた。8月6日の夕方広島に巨大な爆弾が落ちたと知らされたが、その本態については不明だということだった。私の留守宅は広島の中心部から6〜7km離れている草津という町で直接の被害は少ないと思っていたが、8月7日夕方の情報では、広島市の旧市内は人を含めて建物などは壊滅状態であるということだった。 8月15日終戦をむかえ軍隊も解散となり20日頃に何も持たず郷里に帰って来たが、広島駅頭に降りて見て驚いた。広島市内の建物はコンクリート建築の数個を除いてはすべて倒壊し、一面の平原のようになっていた。さらに4・5km西方にある己斐駅(現在の西広島駅)が一望のもとに見えることだ。これはただ事ではないと思った。 自宅の在る草津地区は幸いにも家屋の倒壊は免れたので、多くの市内で被爆した縁者たちが身を寄せていた。被爆直後は無傷であった彼らも、脱毛、発熱、皮膚出血、発熱、歯齦出血、下血しながら、口の中は壊疸性潰瘍となり、8月月下旬から9月初旬にかけて次々と亡くなっていった。いわゆる第二期のもの即ち、被爆後2週目位から発症するもので、死亡するものが非常に多かった。 医薬品としては、ブドウ糖一本でも貴重であり、火傷に用いる油類、リバノール、マーキュロクロームなどの外は、包帯類もない状態だった。赤十字国際委員会駐日主席代表のマルセル・ジュノー博士(Dr.Marcel Junod:1904~1961:スイスの医学者)が来広し、原爆被害の惨状を知ると直ちに連合軍司令部に医薬品の提供を要請したことによって、やっと医療らしいことが出来たのは、9月20日過ぎであった。 それ故、野山の一木一草、薬になるものなら何でもよいという状況であり、医薬品を求める人々の願いはまことに切実であったが、私達医師は為す術もないという状態であった。 以下に述べることは、このような極悪な医療環境の中で、言い換えれば民間療法というか、伝承の智恵による医法しかないような状況下で行われた治療法であったことを銘記していただきたい。それは殆ど医師とは関わりなく行われたもので、表の医学・医療ではなく、アンダーグランドの医療であったので、医師を中心とした原爆医療に於いては、全く無視されてきた分野である。この隠れた医療の智恵を直接大衆から聞いてみたいと思つつこの三十年が過ぎていった。 このような劣悪な中で行われた民間の医療をなんとか掘り起こし後世に伝えたいと最初に企てたのは、日本東洋医学会広島大会を一年後にひかえた昭和43年1968年夏であった。漢方針灸同好の士に呼びかけて資料を収集し、全国から集まる伝統医学の医療関係者に「原爆傷害に於ける民間療法の役割」として報告する積りであった。しかし私一個人の力では思うように情報が集まらずその量も甚だ少なく報告することを諦めざるを得なかった。 次第に何か他の方法で一般大衆から直接体験の情報を得るしか方法がないという思いに至った。しかし年数を経るにつれ生存者は少なくなり、被爆の体験は風化の一途をたどるばかりある。一刻も早く記録に残こさねばと思っていた。 しかしこのような中、私の気持ちを理解して頂いた広島の地方紙中国新聞社山内記者と中国新聞社のご協力で、埋もれた情報をひろく集めるための新聞報道となった。そのおかげで即日被爆者及びその縁者の方々から貴重な情報が頂き、この度その内容を公にするに至った次第です。 今でも原子力発電事故などの放射線障害は、我々の身近にもあり、そして人類が人類の身をもって行った多数の犠牲者の冥福を析るためにも、寄せられた貴重な経験を将来の人類の健康に役立てようと思いこの論文を書いた。 なおこの論文は、核戦争防止国際医師会議で講演するため東洋医学の知識に乏しい西洋医学を主体とした欧米の医師達のための啓蒙論文であることをご理解いただきたい。 1. 死亡率 原子爆弾の爆発によって生ずる甚大な災害は熱線、爆風及び放射線によってもたらされるものであるが、初期原子爆弾傷の重症度は、日米合同調査団の調査結果では、爆心地からの距離が負傷率や死亡率に深く関係していることを示している。それはまた、遮蔽状況によって傷害の程度に差異を生じている。 Table1.1)には戸外の被爆者に於け内での被爆者死亡率であり、Table2.2)木造建物内での被爆者死亡率であるが、Table3.1)はコンクリート建物内の被爆者死亡率である。戸外と木造建物内とは余り差異はないが、コンクリート建物内での死亡率は甚だ少ないようである。 東京帝国大学医学部調査班の増山元三郎氏によれば、広島県可部警察署の検死記録から原子爆弾傷を負い、可部に逃れた人びとの死亡の状況を日を追って調べた結果によると、死亡者の累計が日々増加してゆく模様は、一定の指数関数曲線であらわされ、死亡数はほぼ6日毎に半減していった。即ち、50%が第6日までに、25%が第7日から12日までの間に、結局90%以上の人びとが40日までに死亡した。 2. 一次放射能症の症状(日米合同調査団の資料による3)) (1)悪心 嘔吐 食思不振 これら消化管に対するものは、被爆当日は、被爆者の71%に発症し、その持続は2・3日であったという。 (2)下痢 頻度は20日生存者で37%。1km以内の被爆者では50%という風に高率であった。初期は赤痢などの伝染病と思われていた血性下痢は、20日間生存者2,500名のうち16%であった。 (3)出血斑ないし点状出血 最も早く発症したものは、第2日目にみられたが、発現のピークは第20〜第30日、平均25日であった。その発症頻度は、広島で1km以内49%、5km以遠0.5%、1.5kmを越えると激減する。発現部位は上頭部、顔面、前胸部など上半身に多い。 (4)脱毛 多くの場合、出血斑より早く、第2週目から突然はじまり、1km以内では、平均17.2日で発症頻度は1km以内では69%、3km以遠では2%であった。しかし、戸外または木道家屋内で被爆した場合76%であり、コンクリート建物内では53%であった。 脱毛は、平均1〜2週つづき、8〜10週後に再生がはじまるが、生存者の多くは、12〜14週でもとに復した。死亡者は再び生えることはない。 (5)口腔咽頭病巣 脱毛、出血斑にともなうことが多く、発症頻度は1km以内で61%、5km以遠では7%であったが、病巣は、咽頭や口蓋の発赤と疼痛にはじまり、急速に出血壊死潰瘍形成にすすみ、高度の潰瘍をみた者は多く死亡した。 治癒にむかったものでも軽快に2〜3週を要した。壊死性歯骸炎は、口腔咽頭病巣の10%に見出された。 (6)出血 血小板の減少による出血傾向の亢進の他、粘膜その他の組織の壊死、潰瘍形成、感染などの結果であり、その病像は多様であったが、鼻出血や子宮出血はしばしば止血が困難で、大量の失血をまねいた。また、口腔・直腸・尿道・気道からの出血も少なくなかった。 それは、骨髄の傷害に伴うものであり、最重症群は14日以内に死亡した人であり、240メートルの距離でコンクリート三階で被爆した9名の血液は、8月12日(6日後)、8月13日(7日後)には白血球数は400から125であり、被爆後14日〜17日後にはすべて死亡している(岩国海軍病院) (7)発熱 感染とも関係が深い。Ikm以内で被爆した20日生存者の35%に発熱がみられ、5km以遠では5%の頻度であった。 大量の線量をうけた者では、数時間内に悪心・嘔吐があり、発熱を伴うものである。 重症者では、その後、5〜7日目から体温上昇を来たし、死に至るまでつづくものである。これよりやや軽症のものでは、悪心・嘔吐は間もなく消失し、一時無熱の潜伏期に入るが、脱毛や出血斑が現われると再び発熱すし、高熱のまま死に至るがものと、白血球数が回復し解熱したしたものがあった。 3. 早期西洋医学的治療 被爆直後の医療は、大量の負傷者の発生、医療従事者の不足、薬品衛生材料の欠乏により、困難を極めたことは想像に難くない。 (1)熱傷、外傷 亜鉛華油ないし亜鉛華軟膏の塗布が唯一の処治であった。種油、食用油、ヒマシ油、機械油で代用した場合も多い。ヨードチンキ、マーキュロクローム、リバノール、クレゾール、俑酸水、硬酸軟膏が用いられた。原子爆弾傷の特異性として、外傷による出血の止血が困難であったといわれている。圧迫タンポンまたは、ボスミン溶液をひたしたタンポンが僅かに効を奏したという。 外傷は、化膿或いは壊疸におちいりやすかった。やがて、下痢、血便が現われたが、これは赤痢を疑わしめるものであった。しかし、赤痢菌の培養では陰性であり、抗菌性薬剤も無効であったという。 これは、広島県立医専の玉川忠太郎教授によれば、被爆後は、早速広島県庁に行き病理解剖の必要性を説いたが、許可されず困っていた。しかし次々と死んでいく人々を眼前にすると、矢もたてもたまらず8月20日過ぎ罰せられてもかまわないから病理解剖しようと決意したということであった。解剖所見としては、骨髄痔と肺、心、胃腸などすべては毛細管出血であり、赤痢の潰瘍ではないと県衛生部に報告したと言うことだ。 (2)都築博士治療指針(昭和20年9月3日)4) 現在、脱毛、口内炎、出血、発熱などの症状を訴えるものに対し、 1)重症者(一般症状重篤にして白血球数1000以下) (a)対症療法として鎮痛、強心、止血に注意すること。 (b)事情が許せば、次の中等症者に対する治療方針を準用すること。 2)中等症者(脱毛、口内炎、下痢あるも、一般症状未だ重篤ならず、白血球1,000以上のもの) (a)安静、栄養高き新鮮なる食餌を摂ること。 (b)蛋白刺激療法、自家血筋肉内注入法(自家血20〜30ccを静脈より採取、大腿部筋肉内に注入する。もし行いうるならばならば一日一回同型新鮮血を100cc輸血するもよい。) (c)ビタミンB及びC大量投与、または新鮮なる野菜、果実を与えること。 (d)カルシウムの製剤の投与、塩化カルシウムまたは、ロヂノン・カルシウムなど20ccを1日1〜2回静注。 (e)肝臓製剤の投与、生肝臓、焼肝臓、肝臓末。 (f)生理的食塩水、リングル氏液、5%グルコース1日500cc皮下注入。 3)軽症者 軽度の脱毛あるもの、軽い歯敵炎、下痢あるもの、または、これ等の症状が軽快しつつあるものには、上記中等症の治療に準じて治療するが、特に注意することは、安静を守らしめることである。特異な療法として虹波の投与、食塩の摂取、柿の葉煎汁の投与、アルコール摂取、40%アルコール静注、牛肝油抽出液の筋肉注射が白血球の増加をきたしたという。 戦時及び戦後の食糧難の時代であったので、栄養補給が充分でなかったことも死亡率をたかめた原因の一つに挙げられるであろう。 アメリカ軍進駐後、国際赤十字社のマルセル・ジュノー氏の努力により、ペニシリン、サルファグアニジン、プラスマなどが給与され、悪急性期以後の感染症、血液像の回復に効果を示したと言われている。 (3)早期治療報告(直後から二週間) 前述の治療方針は、9月3日にまとめられたものであって、明らかに放射能症ということが判明した直後の治療についてであるが、それ以前の医療状態はどうであったかについて当時の日本に於ける二大新聞の記事を照会してみたい。 ■朝日新聞・昭和20年8月29日 「頭髪も全部ぬける原子爆弾被害者の臨床報告」 阪大附属病院で収容されている罹災者の病状経過並びに長井助教授の現地視察報告の中から拾った実相である。 1)症例 男子、37歳  中心より3kmで罹災、負傷なし。口の周辺に火傷を負う。当日以来、食事進まず、3日後に来阪。嘔吐感強く、40度の発熱を見たため阪大に入院。脈博は110ないし120という速さであった。口の周辺の傷が拡大腫脹し歯ぐきから出血、全身に斑点状出血があり、頭髪全部抜けた。  白血球は430にまで減少。栄養注射、強心剤を打ったが、全然効果なく、18日目に死亡した。 2)症例 男子、28歳  中心点から1200メートルの工場で罹災。工場の下敷になったが、たいした怪我なく、翌日来阪、入院した。口辺に火傷を負ったが、日時の経過と共に次第に拡大。歯ぐきと扁桃腺から出血、頭髪が脱け、全身に出血の斑点をみたこと前者と同様である。白血球は2000に減少、16日目に死亡した。両者共に肝臓、肺臓などの造血器が腫れ、レントゲン大量照射の場合に類似した症状を起こした。 3)症例 男子、26歳学徒兵  永井隆氏報告。投下地点からIkmの地点にあり、たいした負傷もなく、四〜五日は元気で救助作業に活躍したが、その後、食欲不振、全身倦怠、下痢、40度ないし42度の発熱、血痰の交った咳をする。歯ぐきからの出血、11日目の短期間で死亡。罹災当時活躍したもの程、症状が重く、けがして担架で運ばれた者ほど放射線による被害が少ない。その後400名を収容した同病院では、毎日40名の患者が死亡、殆んど全滅の状態にある。 4)症例 男子、28歳  永井氏報告。周辺地で罹災、何のけがもなかった。広島市内に勤労働具申の肉親を探すために1週間広島市内に滞在、帰宅後間もなく死亡。死亡の状況は、まず脈博に現われる。脈が早く触れられないような時でも、意識ははっきりしている。臨床的に対策樹立の域に達しなかったと報じている。 ■毎日新聞・昭和20年8月21日 「2週間目、黒髪ボロボロ”捨てて置けぬ”わが医学界で徹底究明へ」という表題である。  去る12日東大都築外科の玄関口に衰弱甚しい35、6歳の患者が家人に運ばれてきた。  この患者は、丸山定夫氏を隊長とする移動演劇隊の花形・仲みどりさんである。  みどりさんは隊員17名と広島市福屋百貨店附近の宿舎(中心より700メートル)で罹災した。17名中13名は即死、わずかに丸山氏をはじめ4名が生きていたが、それも次々と亡くなった。みどりさんは、背中に軽い擦過傷をうけた他は、身体的内部症状は認められぬまま一人で元気に帰京した。旬日前の容姿は、極度の食欲不振で今はみる影もなく、入院。4日目罹災後2週間目には房々とした黒髪は抜けはじめ、ちょっとした擦過程度の背中の傷も急激に拡大化膿し、白血球数も500〜600に減少していた。そこで残された手段は輸血以外にはなかったが、輸血した針の傷痕からまた腐蝕しはじめるではないか。  24日朝、罹災後19日目に不帰の人となった。 4. 民間療法 (1)民間薬とは 民間薬という言葉は、日本独特の名称であるがそれは生活の中で自然に見出され、使用されてきたものである。多くの経験と体験により、必要にせまられて自然に生み出されたものである。そして、その用い方は、文字のなかった時代からずっと言い伝えによって伝承されてきたものが多い。民間薬自身は、多くの場合一つの薬草のみで用いられるところに漢方薬との大きな差異がある。 これに対し日本で漢方薬というのは、病人を漢方医学的に診て、種々の症状の組み合わさった症候群を観察し、漢方の原典に記載されている処方を選び投薬する。その原典というのは二千年前、中国で完成された『傷寒論』『金置要略』『千金方』『和剤局方』などの医書である。この原典に書いてある治療法則に基いて治療方剤を選び投薬するわけである。それは、現在の日本に於いては、古典を学習した医師、薬剤師によって扱われているが、そこに用いられる薬物は、中国からの輸入薬が多く、素人が簡単に入手するわけにもいかない。 その点、民間薬は、我々の住んでいる環境の山野から得られるものであるから入手が容易であり、専門家でなくとも、伝承を聞いたり、教わったりして用いるわけである。それは、経験から出発して長年月に亘り確かめ蓄積された人間の生きるための智慧であり市井を照す輝きがある。 特に原爆による巨大な破壊力によって一時に一切が破滅しているときであるから、西洋医薬のみならず、漢方の医薬も全く不足していたわけである。そのときの人間は、自らの智慧によって身のまわりに残っている草木や野菜果物を治療薬として用いる以外にはなかった。私がこの論文をかいた大きな目的の一つは、ここに輝いている人類の智慧の結晶の一部を皆様に知って欲しかったわけである。それを諸賢によって確かめられ、利用して欲しかったのである。 その薬草の種類は、約150種類あるが、それは、民間薬を特に研究した専門家なら上手に使い分けることができ、時には、漢方薬のかわりに民間薬を自在に使いこなせるが、全くの素人に用いられるものは、約20種類ほどの限られものである。 また、「医食同源」という言葉は、日本や中国では自然に感覚的に知られているが、それは、「薬食同源」ともいい、健康を保持するための食事と薬とは別物ではないという考え方をもととしている。キウリ、キャベツ、キンカン、コムギ、サトイモ、ジャガイモ、スイカ、ソバ、ダイコン、タマネギ、ナス、ナツミカン、ネギ、ミョウガ、梅、生姜、蘇葉、桂皮、ナツメ等があるが、植物のみならず、動物、魚貝類もよく用いられている。牡礪、カタツムリ、シジミ、タニシ、ドジョウ、ナマコ、ナメクジ、フナ、コイ、ミミズ、マムシ、モグラ、ヤツメウナギ、郎等がある。 (2)都築博士を囲む座談会(昭和20年9月12日)5)  これは新聞の記事の表題であるが、この広島の地方新聞記事を照会してみたい。 医: 骨髄障害と称して来るものがかなりある。白血球減少のみで死ぬものはそう沢山はいないが。 都築:お灸をすえて骨髄を整理してやると早く治ることになる。 医: 柿の葉を与えて好結果を得た経験あり。 都築:柿の葉にはビタミンが豊富ですからね。お茶と同じようにして煎じてのませるとよろしい。 医: 私はビタミン剤、カルシウム剤、輸血100cc、毎日或いは隔日にやっている。もう少し数を重ねてみなければ、その結果についてはわからない。皮下出血をおこしている人は既に手遅れであると思う。白血球500〜600には、輸血も殆んど効果をあらわしてはいない。お灸も試みたが、1000以下のもの、発熱しているものには効果はない。 とこのように記載されているが、民間薬については、ただビタミンの補給になるからというような薬学知識しかなく、お灸についても、どの経穴を選び、どのように治療するかについての針灸的知識もないわけである。 (3)永井博土救護報告6) 長崎医科大学放射線学教授の長崎市原子爆弾傷害時の昭和20年8月から10月までの間に於ける救護状態の報告書から引用する。 永井博士グループの治療は、大体、4項目にわけられている。 1)環境療法、 2)鉱泉療法、 3)自家移血刺激療法 4)一般療法 (a)外傷 (b)類火傷 (c)早発性血液障害 (d)早発性消化器障害 (e)遅発性血液障害 (f)フオーレル水の少量、肝臓野菜食療法、骨髄スープ、野菜としてはキュウリが多く用いられた。果実として梨、柿がビタミン源として充分与えられた。馬鈴薯、南瓜、冬瓜を副食物として、入院よりは家庭静養法を主としたので、栄養は充分であった。別にビタミンC及びBの注射、高熱に対しては、フェナセチン、ズルファミン投与をしたが、無効であった。 (g)民間療法(医師の指示によらず) 柿の葉、ドクダミ、数珠玉、白南天、ロカイ、青紫蘇、ゲンノショウコ等の煎汁が多く用いられた。酢を飲ませて有効だったという者がある。また重篤な患者が最後だからと言って、日本酒を大量飲んで軽快したのもある。 この他には、日本では民間薬のまとまった報告はない。 (4)私の資料内容 その内容の大部分は、電話、葉書、手紙で報告されたものであるが、日常臨床の外来で聞いたものや原爆医薬史、新聞、小説「黒い雨」に語られているものも少数人っている。 1)協力者の人数 48人であった。そのうち、本人自身によるものは23人であり、その他は家族や親戚の証言によるものである。報告者一人で、二人ないし数人、数十名の報告もあった。 2)爆心地からの距離について(Table4) 距離の判明しているものは、28名であった。表の如く240メートル1人、700メートル6人、800メートル1人、1,000メートル5人、1,200メートル2人、1,400メートル5人、1,500メートル4人、1,700メートル3人、1,800メートル5人、2,000メートル、2,300メートル、2,500メートル、3,000メートルは1人ずつである。 5. 被爆民間療法の種類及び民間薬について 民間療法としては、伝承による民間薬を使用したが、それには、内服と外用とがある。外用は主として火傷に対するものであった。民間薬には、植物性のものばかりでなく、魚介類も多い。その他、吐法及び灸法がある。また日常の食品、果物を薬用ないし準薬用として用いている。table5.のA、B、C、D、E、Fを参照されたい。 下表の如くであるが、できれば一つ一つの症例について詳細に照会して御参考に供したいが、紙面の都合上、代表的な症例を呈示しながら解説したい。 6. 民間薬の種類と症例 (1)ドクダミ(重薬) 爆心からの距離700メートル2人、1,000メートル2人、1,500メートル1人、1,800メートル1人、2,300メートル1人、2,500メートル1人、即ち1,000メートル以内は4名となっている。使用した患者11名のうち距離の不明なものは三名であった。 この報告された11名には死亡者はいないが、それは、効果があって生存している方からの報告が主体となっているからであって、無効または死亡した人の報告は集まらなかったものと思われる。生存者は皆効果があったということである。 症例(1)姉17歳、妹14歳 共に1,000メートルの街路上で被爆したが、幸い大きな火傷、外傷はなかった。 姉は即日、鼻出血と共に高熱を出し、3日間意識不明であったという。覚めてから母親に毎日ドクダミを服用させられ、約1年つづけた。現在、広島大学原医研の外科に看護婦として勤務しているが、妹は元気であったので、ドクダミものまずにいたが、九月初旬、突然発熱、脱毛、下痢、咽喉頭炎、下血などの放射能症を発し、12月下旬には死亡したが自分はドクダミ服用の効果があって、現在まで元気に生きていられると思います。大学でも一般の医師達はこの方面に無関心ですが、先生は、このような民間薬のことを理解して下さることは有り難いと思いますので、お電話致しました、というのである。 症例(2)久米登氏談(『広島原爆医療史』より) 原爆症についてこういう実例があります。 「私の姪が基町の連隊区司令部(700メートル)に於いて下敷きとなり、はい出て3日目に帰ってきました。そのとき相当弱っていまして、すぐ豊田郡安登村に疎開しましたが、そこの医者は、薬はあるがドクダミをお茶代わりにどんどん飲んだ方が良いと言ったそうです。その後、歯鮫炎、脱毛、発熱がありましたが、田舎で食べた新鮮な野菜とドクダミを飲んだお蔭で元気になり、現在では結婚して子供が1人おります。 ところがその妹が、コンクリートの建築の銀行集会所(240メートル)の室内で電話交換手をしていましたが、岩国の海軍病院に入院し、経過は良いといわれていたのが、8月11日には発症し、8月17日には死亡しました。病院に収容されたものが死亡し、田舎の医者にみてもらったものが元気なんです。やはり田舎で養生したのが良かったのでしょう」とこのように言っています。 ところが、この死亡した姪を含め同じ職場の9人はすべて岩国病院に入院し、白血球数が算定されてあったわけです。(『広島・長崎の原爆災害』83頁)。 即ち被爆後6・7日目の白血球はすべて400〜150であり、その後約1週間後には9人共に死亡しているという最重症例の中に入っています。 私はこのように被爆後6・7日目で白血球数が500以下というような重症例にはドクダミ煎茶だけでは効果はなかったのではないかと思います。救われた姪のように3日後から服用したことがよかったように思われます。それによって放射能障害が軽かったので救命されたのでしょう。  症例(1)も3日後から服用している。 ○薬理作用  ドクダミ(重薬)は魚腥草、十薬ともいい、ドクダミ科の全草を乾燥したもので、主成分は methyl‐n‐nonylketone C11H22O、myrcene C10H16、geranialなどを含む精油。 quercetin C21H20O11、KCl、K2Sa4 などである。  薬能は清熱解毒薬に入っている。  また抗菌作用、抗ウイルス作用、利尿作用があるといわれている。中国の臨床的研究では肺膿瘍、大葉性肺炎に桔梗を配合して袪痰作用を強めて用いる。また魚腥草を煎茶としてお茶代わりに飲んで消炎作用を強める。  たとえば、皮膚疾患については、荊芥連翹湯や柴胡清肝散にドクダミを加えたり、胸腹部の炎症性疾患の際、この薬物を加えることによって奇効を呈することが多い。このほか、湿熱による急性腸炎や赤痢などにも用いられる。ドクダミと共に最も頻用される民間薬にゲンノショウコがある。 (2)楠の木の葉  これは一例であるが、あまりにも劇的に治癒したので報告しておきます。 症例 当時、18歳の青年で爆心から800メートルの広瀬小学校校庭にいた。火傷はなく、前額にガラス片による傷と右大腿部打撲があったが、大体元気で暮らしていたところが8月末日(3週後)になり、全身の出血斑、発熱、脱毛、下痢を発症し、次第に重態となり、四・五日後には絶望視されて、家人は葬式の支度をしていたという。母方の祖母が楠木の葉を煎じて飲めというので樟脳の匂いが鼻について飲みにくかったが、これを服用したら、翌日から熱が下りはじめ、一週間後にはすべての出血は止まった。 ただ不思議なことは、この楠の木の葉を飲みはじめたら、頭や大腿の外傷の部位が化膿しはじめて、膿が沢山出た。これは、薬のために膿を出す力が出たように思うというのである。その後たいした病気もせず、42年後の現在まで元気に働いているが、自分の身体の調子が悪いときには、一日この薬を服用することにしているというのである。 ○薬理作用  性味は辛、苦、温といわれている。鼻をつく特異な芳香がある。毒性があり、主として殺虫剤に用いられる。『和語本草綱目』では、霍乱吐下止まざるに煎服すとなっており、転筋、足腫、水腫足より起こるものに洗うとなっている。また楠木の皮を霍乱、吐瀉、小児の吐乳に煎服し、胃を暖め、気を正すとなっている。 楠の木の葉は注射薬として強心剤として用いられるが、楠の木の葉の内服については、古典にも現代にも文献がないようである。 (3)柿の葉  柿の葉に熱湯を注ぎ、数分後にこれを飲む。ビタミンCを多く含むというので、非常に多用されたらしい。柿の葉をお茶代わりにのむということは、9月3日の都築正男教授の講演にも述べられているが、広島では、郊外から爆心地へ肉親の死体探しに一週間、毎日通った人などは夕方自宅に帰ったら、近所の年寄りから毒消しになると言って柿茶を毎日のまされた。その御蔭で二次放射能障害が出ないで、今も元気でいるという人がかなりいるようである。 ○薬理効果  柿の葉は止血、利尿、血圧降下の作用等があるという。  主成分はビタミンC、carotin、cryptoxanthin、rutin、quercitrin等である。また柿渋は火傷に外用されている。 (4)田螺(タニシ)  症例 彼女は爆心地から約1,000メートルのところにある広島女学院の生徒であった。授業中で室内であったため、幸い外傷もたいしたこともなかったが、8月中旬(2週間後)から発熱、出血斑、脱毛、歯齦出血、下血などの放射線障害が出て、8月下旬には瀕死の状態で絶望的であったので、お坊さんが来て、葬式の心積もりであった。ところが、夜になって父が急に家の裏に行き、田から田螺を採取してきて、外の殼層をやぶり、生のままをすりつぶし、臭いので、鼻をつまんで無理矢理のませたところ、翌日から次第に熱が下り、出血もとまって、一命をとりとめたというのである。現在は、結婚して一児の母であるという。 ○薬理作用 性味は、甘寒であり、清熱、水を利すの効能かある。熱による尿閉、黄疸、脚気、水腫、便血、疔瘡、腫毒を治する。 腎臓性腹水の治療に外用することもある。煎汁は熱を療し、酒を醒ます。食べると大小便を利し、腹中の結熱、脚気、手足の浮腫を去るに用いられる。奥田拓男著『岡山の薬草』には、タニシを殼から出し、細かくたたきつぶし、小麦粉を少々加えて練り、和紙にのばし、腫脹の上に張る外用と、水煮して食べると黄疸によいということになっている。しかし、この症例のように、生のまますりつぶして服用するということは、文献にない伝承である。 (5)塩水  1,500メートルの戸外で親子ともに被爆し、父の方は頭部火傷で軽度のものであった。娘の方は、記載がないので不明であるが、外傷も火傷も大したものではないようであった。救護の仕事を夕方までやって夕方自宅に帰り、平素救護訓練をうけるとき、毒を扱ったら塩水を飲むということを聞いていたので、自分と娘は多量の塩水を飲んで床についた。8日の朝まで熱が高くて意識不明となっていたが、不思議なことに、同じ時刻に真黄の水性下痢便を出して熱が下って、元気になったというのである。 7. 生野菜及び果物について 胡瓜、南瓜、トマト、大根、人参、ジャガイモ、玄米、挑、無花果、西瓜等である。 (1)被爆医師の言葉 700メートルと軍隊宿舎で被爆した。その夜郊外で野宿していたとき、畠にあったトマト、キュウリを沢山食べたことが、その後の放射線障害が軽くすんだ原因ではなかったかと思うと証言している。現在71歳の医師として、日常の診療を行っている。 (2)被爆薬剤師の言葉 当時女子中学生で、爆心地から2.5kmで被爆し足の捻挫のみであったが、6日の午後、爆心地を通って夜遅く郊外の自宅に帰ったという。 本人の手紙の一部をそのまま紹介したい。 「……そして、広島に落ちた爆弾は、文明国のアメリカのやったことだから、ただごとな爆弾ではない。おそらく、科学爆弾に違いないといち早く両親が覚り、生活の知恵から家に到着した直後からとにかく体内の毒素を出してしまわなければと、解毒剤として、ドクダミ、ハブ茶、ハトムギ、をお茶かわりに長期にわたり飲ませて下さり、今では健康茶として自分がいちば飲みやすいように調整して、わが家の常用茶として、原爆以来、43年飲みつづけています。わが家の自慢とする健康茶です。  造血剤として、当時は薬もなく栄養剤などはもちろん手に入らず、夏ですから、トマトとかニンジンの赤い色素は造血、強壮作用が強く、カロチンAつまり植物性ビタミンAを多量に含有していることから、貧血になっては、いけないと、とにかく赤い色素のものを食べさせてくれました。またニンジンをすべてのものにすり込んで料理して食べさせてくれました(年中かかさず)。たとえば卵焼き一つをとっても、卵の中にニンジンをすり込み、ネギを入れてまぜて焼くとか、みそ汁の中まで小さく刻むか、すり込むかして色々工夫してくれました。蛋白質源として、豆乳を、当時は牛乳がなかったので、晩にすり鉢に半升くらい大豆を水につけて翌朝そのまますりこぎですってこし、こしたものは煮て、豆乳にし、こしがらはオカラとして、ニンジン、ゴボウ、タマネギを入れていりつけるとかして美味しく食べさせてくれました。  以上すべて母の生活の知恵から、物資のない当時でも創意工夫して色々と食べさせてくれました。その御蔭で、下痢するでなく、頭痛を訴えるでなく、鼻血がぬけるでなく、頭髪が抜けるでなく、歯ぐきから出血するでなく、原爆症特有の症状が全然あらわれず、現在(1987年)でも健康に送日出来る原動力をあたえて下さったのは、すべて両親のおかげであり、感謝しております。……あの悲惨な状態を二度と繰り返さないためにも、恒久平和の祈りを込めて、ここにしたためてみました……現在、私は造幣局の診療所の薬剤師として医療にたずさわっています。直接の被爆者として原爆症状が全然出なかった事は、あくまでも、被爆直後の解毒処置が早く適正であった事、長期に亘る薬草菜として健康茶を飲用しつづけた事、栄養剤としての茶はなくとも、自然の造血剤としての薬はなくとも自然の造血剤として赤い色素の野菜を食べたり、豆乳の飲用というように、自然の薬草、野菜を生活の知恵として栄養源を与え続けて下さった母の恩恵に感謝するものでございます。  ここに私の被爆後の自然療法の体験をしてみて、絶対的効果があったようにおもわれますが、先生の御趣旨に賛同協力させて頂き、先生の御研究に何等かの参考にしていただければ幸いに存じます。  昭和六十三年六月十五日          敬具 西■■子   小川 新先生 この方の両親の行われた治療や養生法は、早期からまことに適切であって感心いたす他はない。この方以外、このような治療・養生をなさって、今でも元気でいられる多くの市民がおられるように思う。 しかし、放射能障害が明らかになった時期、即ち、発熱、下血、脱毛などの重態になってから、このような養生、治療がはじめられた場合には、このように簡単に元気になるわけにはいかないと思う。 8. 灸法 (1)1.8kmで被爆。8月22日頃から下痢しはじめたが発熱脱毛はなかった。ドクダミ、彐モギを煎じて飲んだが効かないので、臍の上に塩を置き、さらにその上に、味噌をおいて約1時間位お灸したら下痢は治ったので、約半月後出勤した。 (2)700メートルコンクリート内被爆で頭部挫創以外、火傷もなく元気であったが、母親が翌日からドクダミをのませてくれたが、半月後からひどい下痢がつづいたので、ドクダミを止め、生野菜をどんどん食べさせられた。最後は針灸師による灸で下痢はとまった。 (3)距離不明であるが、3週後から下痢したので臍のまわりの4ヵ所と三里の灸をした。 (4)二次放射能障害によるもの 姉夫婦、妹夫婦の4人が死去したが、毎日屍体探しのために呉市から通っているうちに、二週後から下痢がつづき、どこの病院でも治らなかったが、築田多古著『実際的看護の秘訣』という本に出ている脊部灸(肺兪、肺兪、腎兪)によって治った。 (5)急性放射能障害の場合 70歳老婦人、被爆地不詳。 被爆後2週間頃から発熱、脱毛、全身斑点、下血、特に子宮出血がひどかったという、意識もうろうの状態であったという。 一夜、夢の中で姑様が観音様のように尊い人の姿で現われ、お灸をすえたら救かるというのである。どこをお灸したらと夢の中で尋ねたら、足の裏を見せてここだというのであった。翌朝、意識が少しもどり、娘にここに灸をすえてくれと言って頼んだが、爾来、出血はとまり、発熱も治って来はじめたというのである。数カ月この足の裏の経穴に灸をすえ、元気になって現在(昭和50年)も健康であるという。 本人にその灸の場所を見せてもらったが、それは腎経の湧泉という経穴であった。その当時、瀕死の重態であったことは、主治医の佐藤先生に関けば分かるという。どうも、他の医師は信じてくれませんが、先生なら信じてくれそうだからお話ししますというのである。 この湧泉穴は、腎臓や生殖器に関係する経穴であるが、東洋医学でいう腎経というのは、膀胱、生殖器の機能にも大きな関係をもっているものである。それはまた、骨や脳脊髄神経とも関係を持ちながらも毛細血管出血にも深い関連をもっている。 狭心症や呼吸困難の発作のときにも、救急療法としてよく用いられる経穴である。放射能障害の重態のときにこの一つの経穴のみで治癒に向かいはじめたことはまさに驚くべきことである。被爆者の体験談を諸賢に報告し、御参考に供したい。 9. 吐法について チェルノブイリもそうであったが、広島でも前述のごとく被爆後から2週間の間に吐気がよく起こっている。 そこで、鎮吐剤を用いることなしに、積極的に吐方を行った例を紹介しよう。 症例1. 当時19歳の男子トラックの運転手であった。当日の正午頃、軍の命令によって被爆者を宇品港まで運ぶため、千田町方面(1.5km)に入りました。宇品港でトラックから患者をおろしましたが、私は、何となしに毒を沢山吸っているのではないかと思い、米を入れる唐米袋を患者の頭からかぶせ、袋の臭気と暑さのために壮気を催すと袋をはずして吐かすことを数十名にやりましたが、その後生存者達は、30年後の今日でも、あの時、あなたが吐かせてくれたお蔭で助かった気がすると言ってお礼を言ってくれるというのです。 症例2. 母24歳、子4歳(当時)、距離700メートル。親子共幸い外傷、火傷は大したことはなかったが、自宅に帰る途中3.5km近くの井戸の水が美味しかったので、この水を飲んでは、指を口の中に入れて吐くことをくりかえした。4歳の子供にも水を飲ませては吐かしてやり、その後何も障害はなかったが、自分は8月31日頃から発熱、脱毛、歯齦出血、下痢等を発症し、一時意識不明となった。ハブ草茶に梅干を入れてのんだり、柿の葉を煎じてのんだが下痢はとまらなかった。イチジクをたべたら下痢もおさまり、諸症状は治まったというのである。 現在母子共に健在であるが、今思うに、あの最初に行った吐法もよかったのではないかと思うとのことであった。 症例3. 或る在広医師の証言から:IPPNW第9回広島大会の医師の証言の中に、爆心地から約800メートルの電車の中で被爆したが、その電車は焼失し、黒焦げとなった。当時17歳の高等学校を1年休学した。現在61歳で、内科医院を開業しておられるが、初め二・三日間、嘔吐、吐気が非常に甚しく、あまりにも口が渇いて、食物がのどを通らなかった。その後、1年間に亘り、重症な放射能障害に苦しんだが、幸い生命は救かったといわれている。 しかし私から見れば、この吐気と嘔吐こそ、この方の救命反応の第一歩であったように思うのである。 現在ならば、輸液しながら、嘔吐したらもっと楽に排毒ができたのではないかと思う。 ○吐法の意義 東洋医学の治療には、汗・吐・下・和という四の法があるが、吐法も大切な医療分野である。ひどく衰弱している時には、適応はないが、体力のあるときには、積極的に吐剤を用いることが教えてある。 当地広島の恵美三伯は吐方によって難病をよく治したといわれるが、現代の東洋医学では、殆んど行われていないものの、二百年前には、胸膜に貯まった毒を出すという意味で積極的に用いられたものである。 先述の被爆者によって行われた仕法は、民間による伝承の知恵による治療の一端ではないかと思われる。 しかるに、NHKで以前報道された広島大、原医研教授のチェルノブイリ原発事故の治療報告によれば、治療の第一に行われたのは、鎮嘔剤投与であったということを聞いて驚いたわけである。 生体が自然に備えている防禦、治癒反応の第一歩を積極的に利用することなしに、吐気嘔吐を止めるということは、排毒作用としての生体反応を完全に無視しているようである。 このことは、チェルノブイリのみならず、日本、米国等国際的な医学の盲点とも申すべきであろう。 10. 毒という概念と治癒の実際、吉益東洞のこと 被爆直後の原子爆弾放射能症、二次放射能症に於いても、人体に於ける放射線の生物学的反応として、骨髄に対する種々の段階の障害が主体となって、白血球、血小板の減少を伴う全身的毛細血管出血に、感染症が加わっている。 この病態に対して、西洋医学では、主として血液検査による病態解析が主となって、輸血とか、骨髄移植などを中心として、その回復を図る治療方法を選ぶことは、まことに適切である。 しかし、先述のごとく毒という概念に立って、放射能症が発症する以前に種々な薬草及び食品による清熱解毒療法、また種々な方法による排毒療法が、素人によって自然に行われていたことは、驚くべきことであった。ただ、なぜこのような解毒療法が行われたのかの疑問が起こる。 それは、原子爆弾投下の当日、広島市内には、異臭がただよっていたので、これを毒ガス入りの爆弾のように解釈した人が多かったようである。それは、短時間の強烈な熱線の作用によって、爆心地では、約3千〜4千度に達していたので、表皮の炭化のみならず、内臓の蒸発状態を招来し、即死または即日死した多数の人(1〜3万人)の焼死のために出た煙が風によって運ばれ、異臭を放ったのではないかと思われる。これを、爆心地から二千〜三千メートル以上の地点にいた人は、毒ガスを伴う新型爆弾という風に理解したのではないかと思う。 しかし、爆発直後からはじまる一次、二次放射能障害については、全然気付いていなかったのである。医師達がこの点について一部のレントゲン医師は3日後位にX線フィルムの感光の状態をみて気付いていたのであるが、病理学的に分かったのは病理学者が解剖を始めてた8月20日以後であったようだ。赤痢と思って隔離されていた患者の血性下痢が放射能症によるものと広島医学専門学校(広島大学医学部前身)の玉川忠太教授によって判明したのは、8月20日以後であった。 なぜ、このように病理解剖が遅れたかは、県庁衛生部が直後から解剖を禁止していた経緯があるのだが、玉川教授は、この指令を破って止むに止まれず20日頃から解剖を開始したのである。縁あって玉川教授の病理解剖のお手伝いしたが、このことは直接玉川教授からお聞きした。 さて、このような状態であったから、一般の市民や患者は放射能障害のことなど到底知りうべくもない。ただ直感的に毒ガスを吸った毒であろうから、これを体外に排泄しなければ大へんなことになると思い解毒療法を行ったのではないかと思われる。 さてこの広島市は、二百数十年前「万病一毒論」の主張で一世を風扉した江戸時代の医傑吉益東洞を生んだ街であるが、彼は凡そ病というものは、必ず毒によるものであることを悟り、病症や疾患像の奥に潜む欝毒を知らずして医の学問はなりたたない主張した。 それは、現代医学的に言えば、体液循環の障害によって生ずる病的状態を毒という言葉で表現したものであろう。 広島の被爆者が、さしせまる危機を毒に因るものと直感し清熱解毒し瀉下し吐した事は、実に適切であった。このような知恵を発揮したのも吉益東洞の影響があるのではないかと思わる。 この吉益東洞の銅像や、記念碑は、広島県医師会館にあり、顕彰碑は寺町報専坊に建てられているが、彼の功績については、伝統医学の専門家のみならず、現代医学のパイオニアの先生からも尊敬されているような次第である。 11. 後障害の問題 この問題を考える実例を申しのべたい。 700メートルの近距離で被爆し、3日目の朝まで河原で過ごしたが、この人の兄が幸いにも近隣の某陸軍病院の軍医であったので、さがし出されると同時に何等被害をうけていないその病院に収容された。火傷の治療は勿論、輸血、輸液等、当時として西洋医学的には最高の治療をうけ救命したが、放射線に敏感な生殖機能が犯され子宝にめぐまれないというのである。 その点、先述の論文に述べたドクダミによって救かった女性、タニシによって救かった女性はそれぞれ一人づつ子宝にめぐまれているという。 また私の知っている放射線科の70歳の医師柴田先生は、8月6日の前日陸軍軍医として爆心地に近い陸軍病院(距離千メートル)に着任し翌朝被爆したが、三次の病院に収容され西洋医学的療法で救命した。数年後漢方療法によって子宝に恵まれたことが漢方を研究する一つの機縁となったという。 情報資料としては甚だ少ないが、後障害の多少はこの解毒療法をなすかなさないかによって決まる領域があるように思う。 そしてこのことは、一次、二次放射能症のいずれかであるかをとわず、また放射性降下物の汚染の障害とも深くかかわっているように思われる。即ち生殖機能障害、血液病、白血病、慢性肝障害、諸種悪性腫瘍等の発病因子の一つとして重要視されるべき問題であるように思われる。 特に最近、チェルノブイリ原発事故の放射線の被害については、初期放射能による被爆をうけた人は、広島原爆よりははるかに少ないが、放射性降下物による被害は原爆より大きいと考えられ、雲や雨にのって放射能降下物は国境を越えてヨーロッパ全域に広がっている。広島原爆の500倍のセシウム137が放出されたということである。牛乳汚染は48万平方km、癌患者発生は6,250人と推定されている。 この点についての疫学的、遺伝学的な科学的観察の成果を無視するものではないが、後障害の実態を精細に観察する実態認識が不足しているように思われる。特に私の場合、東洋医学的証の診断法を利用しながら現代西洋医学を行っているものにとっては、後障害の病態解析が、より厳密であるので悪性腫瘍や肝炎の発病を予知出来ることも多く、それらを予防しうるような解毒治療の実際を日常臨床で行っている次第である。なおこの後障害の観方と治療の実際については、第二報として症例を呈示しながら報告する積りである。 12. 総括 (1)原爆症の一般的病態像についてのべたが、病理学的詳細については、文献を参照されたい。 (2)西洋医学的治療については、医師及び薬材の極端な不足状態であり、多くを語る資料もないので、主として民間に伝承された治療の中に激的な効果を発揮したものがあったので、それを主として報告した。 (3)民間薬・食品類及び吐法、灸治療について述べた。 (4)民間伝承の知恵による解毒療法が有効であり、それは、後障害にも関係することを述べた。 (5)放射能障害に限らず、医学医療に於ける解毒療法の必要性を述べた。 (6)二百十数年前、広島市出身の医傑、吉益東洞の唱えた万病一毒論に学ぶところがあることを強調した。 結語 科学の発達によってもたらされた諸種の血液検査、輸血、骨髄移植等の現代医学的発達を生かすためにも、東洋の英知にみられる伝承の医学医療に対する認識を新にして、多くの病者を救うための総合医学を理想として人類医学が前進することを切望するものである。

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