2012年9月27日木曜日

(原発事故で時間が止まった街~警戒区域・浪江町ルポ(上)) http://ameblo.jp/rain37/entry-11364232225.html 静まり返った商店街にカラスの鳴き声が響く。駅にも商店にも昨年3月11日を示す張り紙が貼られたまま。コンビニエンスストアには、あの日のスポーツ紙が色あせて並んでいる。時間が止まった街・浪江町。地震で崩落したままの老舗商店、7μSVと高線量の中学校、カビ臭くなってしまった民家…。住民の一時立ち入りに同行し、放射性物質の直撃を受けた浪江町の現在の姿を目の当たりにした。 【住宅街に乱立する怒りの立て看板】 遠くで警察官が止まれと合図をしている。取材に協力してくれた男性(58)=中通りに避難中=が運転する車がゆっくりと止まる。窓を開ける。応対した真面目そうな若い警察官は、岡山県警から応援派遣されていた。浪江町の少し手前、南相馬市小高区に設けられた検問所。町から交付された立ち入り許可証とわれわれ2人の運転免許証に視線を往復させる。確認が済むと「お気をつけてください」と敬礼した。男性はゆっくりとアクセルを踏む。完成したばかりの高速道路のように静まり返った道路。高線量を理由に立ち入りを制限された浪江町に入った。 「飯舘村のように出入り自由になってしまったら、盗みが横行してしまう。実際、浪江町でも原発事故直後に商品を盗まれた商店があると聞いている。コンビニのATMも。だからああやって24時間警戒してくれることはありがたいんだよ」。男性は、遠ざかる警察官たちをバックミラー越しに見ながら言った。 ボウリング場・ナミエボウルの玄関には、従業員が置いて行ったのだろう「いつかきっと!2011.9」と書かれたTシャツが飾られていた。よく見ると、日本地図に各地の原発がデザインされている。「町も住民の生活も潤う」と言われて建設されたはずの原発によって、ふるさとを強制的に奪われた町民の怒り。 怒りは住宅街にもあふれていた。知念寺交差点から幾世橋地区に入ると、赤や黒のペンキで板に力強く書かれた文字に車を止めた。読み人知らずの句などに込められた怨念のようなものが胸に迫る。 「ミンシュトー/民を滅ぼす民死党/はやくなくなれ/セシウムとミンシュ」 「必殺仕事人様、原子力ムラの悪党をやっつけてください」 「原子力危険不安院/原子力寄生虫(庁)/名前を変えても中身は同じ」 住むことを禁じられた町に残された〝民の声〟。 野田総理大臣や原子力規制委員会の田中俊一委員長ら「原子力ムラの悪党」が目にすることはない。言葉を失う私に、同行させてくれた男性は言った。 「浪江町の現状をすべて伝えてください。ありのままを」 民の声新聞-ナミエボウル 民の声新聞-浪江町民の怒り ボウリング場の従業員が1年前に残して行ったTシャツ。 願い通り町に戻ることはできるだろうか(上) 幾世橋地区に立てられていた抗議の看板。政府や原子力 ムラへの怒りが書かれた看板が、何枚もあった(下) 【津波と放射性物質のダブルパンチ】 浪江町に生まれ育った男性が現在の自宅に母親(85)とともに移り住んだのは35年前。8畳3間の平屋建てを自分で建てた。震災でも家が崩落することは免れたが、室内はめちゃめちゃになった。大きな余震が続き、自宅前の空き地に止めた自家用車の中で母親と一晩を明かした。そのまま翌12日の朝7時、町の防災無線で避難が呼びかけられたのを機に、着のみ着のまま逃げた。「まさか1年以上も帰れなくなるとは思わなかった。数日で帰れると思っていたから」。 その自宅に戻る前に請戸橋を通る。この辺りの川は鮭が遡上することで知られており、解禁になると多くの釣り客でにぎわったという。その橋から、遠くに福島第一原発の煙突が見える。原発に向かってきれいに整備された道路の先にそびえる悪魔の塔。 「この辺りは津波で多くの被害を受けた。今、原っぱのように見えるところには家がたくさんあったんだ。俺もビニールハウスを作ったよ。でもね、地震や津波だけならこうして人っ子一人いなくなることはなかった。今頃、みんなで協力して復興に向けて取り組むことができた。でも、あの原発のおかげで住むことができない町になってしまったんだ」 JR常磐線・浪江駅に向かう。十日市で毎年にぎわうという商店街も、今や誰もいない。道路拡張工事のために少し下げて新築したきれいな店舗や住宅に、人が住むことはもうない。工事中を知らせる看板の明かりだけが、いつまでも点灯している。 崩落した店舗の前で車を止める。老舗の印刷店はすっかり原型を失っていた。味噌店「こうじや」は、男性もよく利用したという。「自分の畑で育てた大豆を持ち込んで、よく味噌にしてもらったものだよ。震災前にも大豆を預けたんけど、それきりになってしまったね。ここの味噌は美味しいんだ」。 交差点の真ん中に立つ。360°ぐるっと見渡しても誰もいない。私と男性の声だけがカラスの鳴き声に混じって響くばかり。男性は言った。「真昼間から交差点の真ん中に立つなんてあり得ないだろ?車も走っていない、人も歩いていない。猫一匹、犬一匹いない。これが原発の恐ろしさなんだよ。まるで映画のセットじゃないか。俺はこの姿を保存してほしいと思っているよ。原発事故が起こるとこうなりますよ、ってね」 駅前に「高原の駅よさようなら誕生の駅」という記念碑がある。その横に立つと0.8μSV前後。線路をはさんだ東側は比較的、放射線量は高くないが決して安全に暮らせる数値でもない。 カラスがいつまでも鳴いている。 民の声新聞-流された漁船 民の声新聞-地震で崩落した店舗 民の声新聞-浪江駅 請戸橋付近の道路脇には、今も津波被害の痕跡 が生々しく残っている。請戸漁港にあったはずの 漁船までもが車道を越えて横たわっている(上)。 JR常磐線・浪江駅前の商店街の老舗印刷店は 地震で崩落したまま。町中が3.11で時間が止ま っている(中)。浪江駅も、震災直後に書かれた 「終日運転見合わせ」の文字がそのまま残ってい た(下) 【校庭で7μSV超の浪江中学校】 男性の自宅近くに浪江中学校がある。 校門の近くに、生徒が自転車に乗る際にかぶっていたものだろうか、白いヘルメットが転がっている。線路をはさんで西側に入ると車中でも上昇を始めていた手元の線量計が、降りて歩き始めた途端に一気に上昇する。校門をくぐる。当然ながら生徒の姿も声もない。まるで廃校。校庭に出てみる。雑草が伸び放題ですっかり荒れ地になってしまっている。サッカーのゴールポストにサッカーボール。未曽有の大地震が起きるまで、サッカーで遊んでいたのだろうか。線量計の数値は7μSVを超したところで上昇をやめた。毎時7μSVといえば、単純換算で年50mSVを上回る数値。町の行ったアンケートでは、多くの子どもたちが「早く学校に帰りたい」と書いていた。これだけ汚染された学校を今後除染したら、果たして再び子どもたちが学べる環境に戻せるというのだろうか。 校舎の周囲を歩く。側溝にたまったままの落ち葉。線量計をかざすと40μSVを超えた。もはやため息しか出ない。施錠された窓から教室をのぞくと、楽器が並べられていた。ブラスバンド部だろうか。階段で屋上に上がってみようとしたが、大きなクモが何匹も巣を張って、よそ者の侵入を拒んでいた。頭上では、相変わらずカラスが鳴いている。 車に戻り、男性宅へ向かう。庭にはユズなどの木々が生えているが、もはや口にすることはできない。雨どい直下に線量計をかざすと16μSV。庭の雑草真上で8μSV、玄関前高さ1mでも5-6μSVに達した。激しく汚染され人の住むことのできなくなったわが家。最初に一時帰宅した際は、庭に牛のものと思われる糞が残されていたという。近所の家では、室内に豚の糞があったと聞いた。雑草が伸びきってしまって玄関から室内に入ることができず、裏の勝手口から入る。掃除をすればいいじゃないか、と思うかも知れない。何回も1児帰宅しているんだから片付ければいいじゃないかと思うだろう。男性は悲しそうな表情で否定した。 「片付けたとして、じゃあ、その先に何があるんですか?来週、来月、来年、またここで生活できるようになりますか?片づけることに何の意味もないじゃないですか」 民の声新聞-浪江中① 民の声新聞-浪江中② ゴールポストが置かれたままの浪江中学校校庭
では、地面から1mの高さで軒並み7μSVを超し た(上) 校舎周辺の側溝では、40μSVを超す個所も。こ の校舎に子どもたちの歓声が戻る日は来るのだ ろうか(下) (続)

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