2012年7月11日水曜日

(兵器搭載可能プルトニウム量は 世界一の国 「日本」   プルトニウム生産拠点は「電力各社」  ミサイル実験は「宇宙開発の名で」 アメリカ 国家安全保障通信社の論文より.*日本政府が何故,核を持とうとしたか,又,現在も,国民の意思を無視して核を持とうとするのかその理由が明確に書かれている.ぜひ,読んでいただきたい.) http://ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-621.html  ジョセフ・トレント(Joseph Trento)、2012年4月9日  (National Security News Service: NSNS) 我々NSNSの調査は、何十年にもわたって最高機密であり続けてきた日本の原子力産業を垣間見て、日本と西側諸国の核政策とこの政策を冷戦下とその後の世界で形成した官僚たちに関して、重大な問題を提起する。国際企業と官僚たちは、この欺瞞を遂行するために、国民の安全と国家安全保障を犠牲にした。平和的原子力計画の隠れ蓑の下で、かれらは巨大な利益を上げた。 一年前、自然災害と人災が組み合わさって日本北部で多くの人が犠牲になり、3千万都市の東京が居住不能になる寸前となった。2011年3月に津波が襲来した後、福島第一原子力発電所での水素爆発とそれに続く原子炉3基のメルトダウンで、地域全体に放射能がまき散らされた。原発の20キロ圏内は居住不能と見なされている。ここは国家の犠牲となった地区である。 日本がどのように核の悪夢に至ったかは、NSNSが1991年から調査しているテーマである。日本の原子力計画には二重の目的があった。表向きは日本に無限のエネルギー源を開発し供給するというものであった。 しかしこれには裏があって、日本が十分な核物質と核技術を蓄積し、短期間で核兵器大国になることを可能にする、非公認の核兵器計画だった。民間原子力(発電)を秘密の原爆計画を隠すために利用したのと同じように、日本は平和的宇宙探査計画を、高性能の核兵器運搬手段を開発するための隠れ蓑にした。 日本国民に原子力が生活の中に入ってくることを納得させる唯一の方法は、歴代の政府と産業が一切の軍事利用を隠しておくことであると、日本の政治指導者たちは理解していた。この理由により、日本の歴代政府は結託して、原爆計画を無害なエネルギー計画と民間宇宙計画で偽装してきた。  アメリカ合衆国は意図的に、日本がアメリカの最高機密である核兵器製造施設に立ち入ることを許し、何百億ドル(数兆円)もの税金を投じたアメリカの研究成果を日本に横流しして、日本が1980年代以降70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積することを可能にしたことを、米国の国家安全保障問題専門通信社の国家安全保障通信社(NSNS)の調査が明らかにした。 CIAの報告書により、日本で1960年代から秘密の核兵器計画があることをアメリカ合衆国は察知していたことが、NSNSの調査で判明した。 プルトニウム分離に関する高度な機密技術は、何百億ドルもの価値を持つ増殖炉の研究成果とともに、核拡散に対する歯止めがほとんど無いまま日本に引き渡された。この移転プロセスの一環として、日本の科学者と技術者たちはハンフォードとサバンナ・リバーの両施設へ立ち入りを許された。 日本が核兵器の配備を自粛し、アメリカの核の傘の下にとどまっている間にも、中国とインド、パキスタンを合わせたより大量の核兵器システムを作るのに十分な核物質を蓄積できるように、日本は電力会社を隠れ蓑として使っていた ことが、NSNSの調査で分かった。 アメリカ合衆国によるこの意図的な核拡散は、従来の核兵器保有国が 条約や国際法に反して核拡散に加担しているという、イランのような国による主張に油を注いでいる。  日本は、電子産業や自動車産業を振興したのと同じ方法で、原子力の問題に取り組んだ。中心となる企業グループに長期的利益の望める主要課題が振り分けられた。そして政府は、課題達成に必要とあれば、いかなる経済的・技術的・制度的な支援をも投入して、これらの企業を育成した。 中国、北朝鮮、インド、パキスタンが核兵器を開発したとき、日本と西側同盟諸国は、芽生えつつある脅威に対処するため結束を強めた。 レーガン政権が アメリカの政策を劇的に変化させた法律を制定したことで 頂点に達した。アメリカ合衆国は、日本に送られる アメリカ起源の核物質に対する ほぼ全ての規制を放棄した。 日本政府は、広く知られている日本人の核兵器に対する憎悪を、メディアや歴史学者に政府の核兵器活動を詮索させないために利用した。その結果、2011年3月の惨事に至るまで、日本の原子力産業はほとんど批判の目に曝されることがなかった。国際原子力機関(IAEA)もまた、世界的な核拡散の監視機関であるにもかかわらず、見て見ぬふりをしてきた。 1940年代初頭、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国、日本の科学者たちは、想像も及ばない力を持った兵器を、原子の中から解き放つことに取り組んでいた。 理論物理学の領域では、日本はヨーロッパとアメリカのライバルに対してリードしていたが、 原材料と、それを原子爆弾に変える工業力の余力が無かった。 1943年の時点で、日本版のマンハッタン計画は原爆級ウランを分離できるサイクロトロンを作り出しただけでなく、原子の知られざる力を解き放つ知識を持った核科学者のチームをも生み出した。日本は爆弾を作るのに十分な原料ウランを求めて帝国中を探し回ったが、成果はほとんど無かったため、ナチス・ドイツに助けを求めた。 窮余の一策として、ヒトラーは1200ポンド(544 kg)のウランを載せたUボートを日本に派遣した。1945年5月にアメリカの軍艦がこれを拿捕した。潜水艦に乗船していた2名の日本人士官は自殺し、積み荷のウランはテネシー州オークリッジに運ばれ、アメリカのマンハッタン計画のために使われた。 1945年8月12日、長崎原爆投下の3日後、日本がポツダム宣言受諾を発表する3日前、日本は興南で原爆を実験し、部分的な成功を収めたと、ウィルコックスは書いている。そのときまでは、仁科の研究 (日本の原爆研究の中心人物) は象徴的なものに過ぎなかった。ただ日本には、これに続く爆弾を生産する手段と、アメリカ合衆国へ正確に運搬する手段が欠けていた。 第二次大戦が終わったとき、日本の核兵器製造能力を破壊することは優先事項になった。アメリカの占領軍はサイクロトロンなどの日本の原子爆弾計画の痕跡を破壊し、日本が核兵器計画を再開できないようにした。が、仁科と彼のチームが戦争中に蓄積した膨大な知識の集積を破壊することは出来なかった。 その後、F号 (仁科と彼のチーム) の背後にいた人々は、日本の原子力計画の指導者になった。彼らが最も優先したのは、日本で原子核研究が継続できるために十分なウランを蓄積することだった。 1949年に中国で共産党が勝利し、ソビエト連邦による核実験が成功すると、アメリカの地位は脅かされた。共産主義国は太平洋でアメリカに挑戦し、日本は突如として、敗れた敵国から価値ある同盟国へと転じることになった。 1952年に北朝鮮軍が南へ押し寄せてきたとき、アメリカは全く不意を突かれた。軍備と訓練が不十分なアメリカ海兵隊は釜山で包囲され海まで追い詰められた。このとき初めて アメリカ軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍は、トルーマン大統領に核兵器の使用を進言した。 その核兵器は日本の沖縄に貯蔵された。アメリカ軍が釜山で全滅の危機に瀕しているとき、アメリカのB-29は中国と朝鮮半島の目標を爆撃するため待機していた。中国軍が朝鮮半島に侵攻したとき、日本から飛んだ核兵器搭載の爆撃機が実際に中国と北朝鮮の空域に侵入したが、撃墜された。   1950年代の初頭、アメリカ合衆国は、日本が原子力ビジネスに加わるよう積極的に促していた。アイゼンハワーは、日本やインドのように資源の乏しい国々に、技術的、経済的、道徳的支援の形で 「平和のための原子力」である 原子炉を供与した。慢性的なエネルギー不足に陥っていた経済への解決策として、日本はすぐに原子力に向かった。 国際政治の舞台で足場を築き、戦後の主権と国力を回復することを切望した日本政府は、進んで乏しい資金を研究施設と原子炉に注ぎ込んだ。 アメリカと並んでイギリスとカナダの核技術も輸出の対象になった。イギリスが先行し、マグノックス炉を日本に販売した。GEとウェスティングハウスは急速に残りの業界を押さえ、原子炉の設計図と部品を日本に途方もない値段で売った。 原子力産業が活性化されると、日本はアメリカ合衆国から独立した自前の原子核研究に戻った。アメリカ人に鼓舞されて、1956年に日本の官僚たちは完全な核燃料サイクルを利用する計画を描いた。 理論によれば、プルトニウムは従来の原子炉で燃やされた使用済み燃料から分離され、新しい「増殖炉」で使うことが出来る。それに成功した者はまだ誰もいなかったが、これは技術時代の夜明けであった。 これがあれば、日本がアメリカ産エネルギーへの依存から脱却し、最も強力で入手が困難な爆弾材料であるプルトニウムの膨大な備蓄を作り出すこともできる。 1964年の10月に、中国共産党は初の原子爆弾を起爆させて世界を驚愕させた。世界は驚きにとらわれたが、日本ほど強い感情が巻き起こった国は他になかった。3ヶ月後、日本の佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン大統領との秘密会談のためにワシントンに行った。 もしアメリカ合衆国が核攻撃に対する日本の安全を保障しないなら、日本は核兵器システムを開発する。この最後通牒で、ジョンソン大統領はアメリカの「核の傘」を拡大させることを余儀なくされた。日本人と世界中の人々には、彼が作った 非核三原則 がけっして完全に実施されることはなかったとは知る由もなく、佐藤は秘密の核兵器計画を進めさせた。 その後の数年で、何千発ものアメリカの核兵器が日本の港と在日米軍基地を通過していった。佐藤のジョンソン大統領との歴史的会談の前でさえ、アメリカの核兵器が日本に貯蔵されることを日本は公式には無視することに、密かに同意した。日本政府の官僚は一切を紙に書き記さなかったという点で抜け目がなかった。 1960年に日本政府は、核武装したアメリカの軍艦が日本の港と領海に入ることに、口頭で同意していた。 1980年代にこれらの問題について質問された時、日本政府はそのような理解があることを頭から否定し、条約の条件にアメリカ合衆国とは異なる解釈があるなどとは「思いもよらない」と言った。 機密が解除されたアメリカ政府文書を見れば、非核三原則は嘲笑の的である。何十年にも渡って横浜を母港とするアメリカの航空母艦キティ・ホークは、日常的に小型の核兵器を運搬していた。  日本はアメリカ軍が核兵器の使用を模擬する合同軍事演習に参加しさえもした。暴露された内容は、日本政府の表向きの政策と核兵器に関する行動の間の分裂を、はっきりと示している。 1970 年代初頭、日本は核不拡散条約に参加すべきかどうかが 問題となった。5つの核兵器保有国は現在の核兵器を保持するが、その他の国々は核兵器を放棄することを誓った。100ヶ国以上がこの条約に署名した。特筆すべき例外は、核の選択肢を残しておきたい インド、パキスタン、イスラエル、日本 であった。 中曽根康弘は日本の防衛庁長官であった経歴を持ち、新しい世代の原子力推進政治家の一人であった。彼は即時の核武装に賛成しなかったが、日本が将来核兵器を開発する権利を制約するいかなる動きにも、彼は反対した。 1969年の外交政策大綱に関わって その6年後、中曽根は再び核兵器論争に巻き込まれた。この論争にかかっていたものは、日本の核兵器保有の能力と、日本の政治で最大の褒美である首相の椅子だった。中曽根は、外面上は核不拡散条約を支持することで首相への道を確かなものにした。 日本の協力への対価は、核兵器用に理想的な材料と技術が絡んでいるときでさえ、日本の核計画には干渉しないという、ジェラルド・フォード大統領の約束であった。フォードの確約によって、1976年に日本はついに核不拡散条約を批准した。日本の核物質取引は衰えることなく続いた。アメリカ合衆国は、引き続き濃縮ウランを日本の原子炉に供給し、使用済み燃料がヨーロッパで再処理され、プルトニウムが日本に返還され、将来の増殖炉で使うために貯蔵されることを容認した。 1976年にジミー・カーターが大統領選に勝利した後、彼は核分裂性物質の拡散を管理する積極的な政策を策定した。彼は、日本を含む最も親しい非核同盟国にさえも、これらの核物質を渡さないと決意していた。 カーターのこの政策にはもっともな理由があった。1976年に日本が核不拡散条約を批准したにもかかわらず、翌年にCIAのために行った研究では、1980年の時点で核兵器を保有する可能性が最も高い3ヶ国の一つに日本を挙げた。核兵器に対する日本人の歴史的反対だけが、日本の核兵器配備に反対する主張となっていた。 カーターは、プルトニウムが世界の安定に及ぼす信じられないほど不安定な影響を知っていた。プルトニウムは唯一最も入手困難な原子爆弾の材料である。彼はプルトニウムの拡散防止を核不拡散政策の基本理念に据えた。 カーターのアメリカ核ドクトリンは、プルトニウムに基づく核燃料サイクルを核エネルギーの未来と見るアメリカの核科学エリート層に極めて不評だった。もしアメリカが核燃料サイクルを完成できれば、全人類が核の恩恵に浴することができる。増殖炉研究計画への熱狂はほとんど宗教的な盛り上がりを見せていた。 情熱的な原子力信奉者の一人に、リチャード・ケネディーという名のキャリア官僚がいた。カーター大統領の核政策に猛烈に反対したので、彼のキャリアは危うくなっていた。 アメリカ政府が本当はどのように働いているのかを理解する必要がある。政権と議会、とりわけ下院は4年か8年で交代して定期的に構成人員が入れ替わるが、官僚機構はほとんど一枚岩ともいえる連続性をもって進み続ける。官僚機構の中では、キャリア官僚は子飼いのプロジェクトの陰で政権が変わるまで身を隠して待つことができる。議会が増殖炉計画を打ち切る前に、レーガンはその将来をリチャード・T・ケネディーの手に託した。                           -- 中略 -- 日本国内で深刻な事故がずっと続いているのは言うに及ばず、スリーマイル島(1979年)やチェルノブイリ(1986年)ですんでの大惨事が起きたにもかかわらず、日本だけが着々と核(原子力)への傾倒を強めてきた。1987年には32基だった原子炉は現在55基、そしてさらに10基の建設が予定されている。 日本はそれだけでなく、史上空前のレベルで核(原子力)に傾倒するパイオニアとして、先導的役割を果たす意図をもっている。日本の核(原子力)の未来というヴィジョンの中心にあるのが、青森県の六ヶ所村だ。20世紀の日本は農業と漁業の伝統を捨て、突出した規模の国営事業をトラウマを払拭するがごとく爆発的に開始し、核(原子力)国家となることを完全に受容した。この変容を端的に表している場所は、おそらく六ヶ所村より他にない。 日本政府は世紀の変わり目に民営化と規制緩和を呪文のように唱え続けていた。にもかかわらず、核(原子力)のプロジェクトには巨額の金が投じられた。市場の力では絶対に開始などできていなかっただろうし、継続も困難だったはずだ。 2005年、一般大衆と政治家の関心が郵政民営化に集中していたあいだに、官僚たちは一般の監視の目や、説明・議論の場を遠く離れた場所から日本の未来を大きく変える決定を行っていた。核(原子力)産業に便宜をとりはからい、数兆円を与えたのである。 簡潔にいうなら、日本は国際社会の潮流からは激しく外れた道を進んでいる国として際立っているのである。その原動力となっているのは、市場の力よりも官僚の指示である。民主的な総意などどこ吹く風だ。 日本の核(原子力)へのコミットメントは、現在その規模においてとりわけ抜きん出ているわけではない。しかし、使用済核燃料の再処理後にプルトニウムを燃料として使用するという、完全な核のサイクルを前に進めているのは核兵器を保有しない国々の中では日本だけである。 このようにプルトニウム超大国の地位を手に入れようとしている点が、日本の際立った特徴なのだ。これまでに蓄えたプルトニウムは45トン以上にもなる。これは、全世界における民生用プルトニウムの貯蔵量230トンの5分の1近くの量で、長崎型原爆5000個分に相当する。日本は「兵器への搭載が可能なプルトニウムを世界一多く保有する国」になったのだ。 バーナビー博士とバーニー博士は2005年、このままでゆけば2020年には日本の貯蔵量は145トンに達すると推測をしている。これは米国の核兵器に使われているプルトニウムの量を上回る。そこで日本は、すべての濃縮と再処理作業について5年間の凍結を呼びかけた2005年2月の国際原子力機関(IAEA)事務局長の勧告を無視した。 現在(2007)、日本は六ヶ所村で完全な商業用再処理を始めている。国際的監視の下に厳しく制限されるべき極めて危険な行為であると、エルバラダイ氏がみなしていることを、日本は国際社会に逆らって、でも米国の熱い祝福を受けながら、お咎めもなしに進めているのである。イランや北朝鮮のような国々は、それと同じ行為を絶対にするなと言われている(しかも日本と同じ濃縮と再処理の道を歩むことは、韓国のような国々も止められている)。 六ヶ所村の再処理設備には、年間800トンの使用済燃料を再処理する能力があり、兵器に使用できる純粋なプルトニウムを毎年8トン(核弾頭1000個分)生産できる ことになっている。そんな工場はアジア唯一のものとなるだろう。だがこれでも、日本がこれまでに集積し、また集積しつつある廃棄物の量に比べたらほんの針の穴程度に過ぎない。アジア全域でこれまでに集められた毒性の使用済核燃料は40,000トンだが、2006年時点で日本の廃棄物はおよそ12,600トンあるとされる。稼動すれば、六ヶ所村からは(原子力)発電所1300基分に匹敵する核廃棄物が放出されることになる。                                               (長文のため編集してある   引用終り)  大変長い 論文であるうえ、 まとめる力も不足し、 完全な紹介には、程遠いかもしれない。 詳しくは、下のリンク先を お読みいただきたい。  しかし、指摘してある点は とても重要だ。 日米とも、 この原子力の推進の中心は 「官僚」が握っていること。 特に、日本の官僚は、 国民の目を騙すために、 文書として残さないことを 確信を持って行っていること。  さらに、 核兵器を製造するために、電力会社を窓口として、プルトニウムの生産をし、それをアメリカが黙認していること。  次に、 ミサイルの開発のために、 宇宙開発を行い、 月探査衛星などの打ち上げを通じて 多弾頭ミサイル技術を 手にしており、 米・ロ につぐ 世界で3番目の 各技術国になっていること …… が書かれている。 特筆すべきは、 その「官僚機構」で、 これは全く政権とは別に動いている。 これを、改めさせない限り、 日本は 「民主的な総意など どこ吹く風だ」 と常に言われるだろう。   ( リンク → Peace Philosophy Centre)

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