2012年7月10日火曜日

(伊達市から母子避難したシングルマザーの1年) http://ameblo.jp/rain37/entry-11298035674.html 科学的な根拠などなかった。ただ漠然とした不安に従って東京を目指した─。七夕の夜、「福島母子避難の会 in 関東」が開いたトークイベントで、福島県伊達市から東京に母子避難したシングルマザーが本音を語った。厳しい寒さの下、路線バス、高速バスと新幹線を乗り継いでの孤独な避難。母の手をぎゅっと握りしめてついてきたきた娘は、ほんの少しだけたくましくなって母に言う。「弟か妹が欲しいな」。わが子のために頑張って走り続けた1年の孤独な闘いを、涙と笑いで振り返った 【雪の中、園庭で身を寄せ合った園児たち】 新幹線から降り立った東京駅は、暖房が効き過ぎるほど効いていた。ダウンジャケットの下の肌が汗ばむ。わが子にソフトクリームを買ってあげた。停電で冷凍食品をしばらく口にしていなかった。駅構内のキオスクには物があふれていた。「物資がある」。ホッとした。3月21 日。母子2人の「母子避難」の始まりだった。 菅野久美子さん(33)は、両親ともに伊達市に生まれ育った生粋の伊達っ子。 シングルマザーとして、娘を保育園に預け、印刷会社で働く日々。未曽有の巨大地震も、取り引き先へ届け物をした帰りの車中だった。 「軽自動車が、まるでトランポリンの上にいるかのようにはねました。ブレーキを踏んだだけでは車体を制御できず、エンジンを切ってようやく車を止めた。信号が消えて、あぁ停電したんだなと。やがて石塀が倒れるのが見えました。目の前に広がる世界が徐々に変わっていったのです」 他の車が動き出したのを見て我に返り、エンジンを再びかけた。アクセルを踏む。断続的に起きる余震。「家の中はめちゃくちゃだよ」。実家に立ち寄ると、両親は屋外に出ていた。怪我の無いことを確認して保育園に向かった。 娘の通う保育園では、園庭に敷かれたブルーシートで園児が保育士たちと肩を寄せ合って迎えの保護者を待っていた。園舎はあまりにも危険な状態だった。余震は止まらない。降り出した雪がさらに心細さを増大させるのか、保育士にすがるように涙を流す子どももいた。他の保護者よりもかなり早い段階で娘と再会できた。この時、16時すぎ。まだ、福島原発のことなどまったく頭をよぎっていなかった。「原発の『げ』の字も無かった」。放射性物質拡散へのカウントダウンが着実に進んでいたことなど、知る由もなかった。 民の声新聞-母子避難 伊達市から母子避難したこの1年の想いを話した 菅野さん(左)=品川区戸越 【漠然とした不安に従い東京に避難】 運よく停電を免れた実家は、〝プチ避難所〟と化した。ラジオを聴く習慣などなく、情報源をテレビに頼っている近所の人々が徐々に集うようになった。そこに第一報が入った。福島原発が水素爆発を起こした。「えっ?」。初めて、大地震と福島原発が頭の中でつながった瞬間だった。 それでもまだ、逃げるという発想はなかった。電話が鳴る。東京の友人からだった。 「避難するならウチはいつでも良いよ、おいで」 「避難?」 何のことやらさっぱり分からない。実家は福島原発から60kmも離れている。「その電話で、初めてリアルに避難を考えました。あっ、避難しなきゃいけない状況なんだ、と」。娘、被曝…。難しいことは分からないが、漠然とした不安がふつふつと湧き上がる。「どう思う?」。両親に尋ねる。父親は反対しなかった。「このままここにいては、孫が将来、被曝で差別を受ける恐れもある」。決まれば動きは早かった。那須塩原まで出られれば、新幹線で東京に行かれることは分かっていた。そうだ、福島競馬場前から高速バスが出ている。じゃあ、競馬場まで路線バスで行けば郡山までは確実に行かれるな、あとはタクシーでもいいや…。 「東電や政府の記者会見は、どうも信用できない。自分の中の漠然とした不安が一番正しいと思ったんです。ならば、それに従って行動しようと思いました」 激しく損傷した高速道路を通った時には、シートベルトをしていても身体が浮いた。バスは通勤ラッシュのような混雑ぶり。郡山駅前で高速バスを降りると、時計の針が午後2時46分で止まっていた。孤独感が襲いかかる。振り返りそうになるのを必死にこらえていた。実家のある集落には、既に原発事故や被曝の話がタブーになり始めていた。その雰囲気の中では、とても東京に避難するなどと近所の人々に言えなかった。幼い娘の手を握る。この子が被曝する恐れのない街へ。大震災から10日後のことだった。 民の声新聞-短冊 会場に飾られた短冊。「家族が一緒に暮らせます ように」という願いが哀しい 【『よく頑張ったね』の言葉にあふれた涙】 逃げてみて初めて、母子避難の困難さを次々と思い知らされた。 一時、身を寄せた川崎市内の役所では、住民票を移さないと保育園に入れないと告げられた。そのため、伊達市に一度戻り、転出手続きをした。 「ここに『避難転出』と書いてください」 淡々と話す職員の言葉が忘れられない。 ハローワークに通う。見知らぬ土地での電車やバスでの移動は、想像以上に疲れた。伊達ではずっと、マイカーだった。「ママ抱っこ」「もう歩けない」。疲れているのは、幼い娘も一緒だった。心が悲鳴を上げていた時、出会ったのはシングルマザーを支援している団体のスタッフだった。 「一人で良く頑張ったね。すごいね。よくここまで来たね」 涙が止まらなかった。 自然豊かな故郷を離れた都会で、肩ひじを張って歩いてきた。 本当にこれで良かったのだろうか。 娘から友達を奪ったのではないか。 原発事故さえなければ、あのまま同世代と友達と娘は思い切り遊べたのに…。 「6月に娘が保育園に入園するまでは、本当に精神的にきつかったです。娘も弱音を吐かなかった。彼女なりに頑張っていたのでしょうね。でも、号泣する私を見て、ようやく本音を口にするようになりました。帰りたいでしょうし、じいちゃん、ばあちゃんにも会いたいでしょうからね」 努力の甲斐あって、都内の役所が行っている「被災者緊急雇用」で働けるようになった。 「今は、まだ避難という宙ぶらりんの状態。移住に向けてステップアップをしたい。やっぱり腰を据えて暮らしたいですよね。私は、シングルマザーだから動きやすかったのかもしれません。だからこそ、『ほら、できるんだよ』と行動で見せてあげたいんです」 6歳になった娘も、少しずつ都会の暮らしに慣れてきた様子。 最近、こんな言葉で菅野さんを驚かせたという。 「ママ、弟か妹が欲しいな」 (了)

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