2013年4月6日土曜日

(チェルノブイリの犯罪 —フクシマへのひとつのモデル.-ウラディミール・チェルトコフの証言) <エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか?  http://echoechanges-echoechanges.blogspot.fr/2012/10/blog-post_14.html  四半世紀にわたって計画された人道的な犯罪が、ヨーロッパの中心部で、しかも重大な責任を担った指導者のもと、情報の遮断と、技術の進んだ西洋文明世界に蔓延した無関心のただなかで、続けられている。軍事・民事の原子力産業界のコンセンサンスを守るため、原子力ロビーと公的医学界は、故意に26年にわたって、チェルノブイリによって汚染された広大な大地という実験場で、数百万の民衆を余儀なく、身体の新たな疾患を実験される人間モルモットにしているのである。子供たちは、実験室の動物のように扱われ、このことに関して、フランス、ドイツ、また彼らを観察しているフランスのNGOのCEPN[1] 、ムタディス・コンサルタント[2]、ETHOS, COREなどは、共同責任者といえる。 同じ運命が、フクシマの惨劇で汚染地に住む日本の住民たち、子供たちにも待ち受けている。というのも、同じ戦略が同じ中心人物たちによって、日本で行なわれようとしているからだ。同じ疑似科学的裏付けを持って、同じ権力者の下で行なわれようとしているのである。 それを証明するために、以下に、チェルノブイリで、世界の科学界、政治界がベラルーシの子供たちにもたらした異なったレベルの悪の帰結を導いた責任者たちの策略を紹介しよう。それは、なによりもまず、原子力と健康の責任者である国連の部局による惨事の影響の管理のことである。すなわち、IAEA 国際原子力機関は、原発の推進者であり、WHO 世界保健機関は、<全ての民衆を最も高い健康状態へと導く>のが目標である。この二つの機関は、チェルノブイリの惨事の汚染地域において、またとりわけ福島で、科学的、医学的権威という高所から、原子力分野一般において、安保理事会の理事国五カ国から強いられた犯罪的政策を支持し、実践する。  この政策は、科学とは無縁の無知による立派な戦略のうえに、科学性のよそおいをこらすために、行なわれる。原子力ロビーのやり方は、広島・長崎の原爆体験を引用して、チェルノブイリを説明しようとする。原爆爆発の閃光の強い線量と、チェルノブイリ地域の低線量放射線の長期的被曝によって観察された症状を比較して、これらの症状を事故で起こったというのは、先験的に不可能であると説明する。しかしながら、この二つの出来事と健康を害するそのメカニズムは、同じではない。一方が他方を説明するわけではない。チェルノブイリでは、原爆の爆発は起こらなかったのだ。原子による二度の爆発 (出力エクスカーション)と10日間続いた火事があった。今日、原発の周辺の環境および地表面でのバックグラウンド放射線量は低い。しかし、水蒸気による爆発時に、莫大な量の人工放射線が放出され、風と雨で拡散された。半減期の長いこうした核種は、環境を汚染し、植物、動物、人間を汚染する。この放射線は、原発の周辺で作業しながら放射性粒子を摂取し、吸い込んだ数十万の若い事故処理作業員<リクビダートル>の健康と生命を破壊し、さらに未来世代を汚染し続けるだろう。遺伝子と遺伝子周辺組織への損傷は、<リクビダートル>の子孫に受け継がれるし、第一世代では知られなかった疾病がその次の世代にも引き継がれるだろう[3]。 WHOとIAEAは、最初の作業に関与した<リクビダートル>の50人ほどの死亡と2056年になるまで約9000人のさらなるガン病者しか認定していない。ところが、2001年、ウクライナとロシア連邦での公式データでは、関与した<リクビダートル>の10%が死亡し、30%が障害者だとすでに報告していたのである(ソ連圏すべてから集められた<リクビダートル>は80万人以上である)。汚染地帯で暮らしているベラルーシの200万の農民と25万人以上の子供たちは、チェルノブイリ事故の影響から無事なのだろうか。毎年、ベラルーシで増大し悪化する病気の大半は、公式には、ストレスや放射能恐怖症、そして、両親のアルコール依存症のせいにされている。 IAEAの放射線防護・核廃棄物安全基準局長であるアベル・ゴンサレスは,ICRP副会長やアルゼンチン放射線防護庁長官を務め,アルゼンチンとIAEAからUNSCEAR(国連放射能科学委員会)への代表も務め,WHOの顧問でもある,彼はスイスTVが撮影した2001年6月4-8日のキエフでの国際会議で,「このような低線量のもとでの放射能と病気の相関関係を証明することは不可能であり,それは,『解決不能な認識論的な問題』である」と表明した.彼は,文字どおり,「この段階で直接,認知する手段を持っていません.私たちは知らないのです!」と述べたのである.  それとは反対に、私たちは、バンダジェフスキー教授が9年間の厳密な科学的研究によって、この主張された無知を粉砕したため、刑務所で過ごすことになり、亡命させられたことを知っている。ユーリ・バンダジェフスキーは、ゴンザレス氏のように物理学者ではなく、解剖病理学者であるため、IAEAの役人が不足していたと主張するところの「直接認知の手段」に熟達していたのだ。彼は相関性を発見し、低線量で体内に取り込まれた放射性核種と必須臓器と破壊の間の因果関係の証拠を確立した。  私は、取材の間に、フランスの非政府組織の専門家たちが、ベラルーシの子供たちを、放射線防護も適切な医学的介護もなく、余儀なく原子による未知のあらゆる病気で苦しませた有害な政策の積極的遂行者の役を担っているのを見出したのだ。ヨーロッパの金持国から資金を得たこうしたフランスの諸組織は、住民の汚染に関するデータを集め、過剰な汚染を避けるためのやり方について講座を行なった。だが、彼らが観察した子供たちを治療することはなかった。もっとひどいことは、身体組織から放射性核種を排出することを促進させるペクチンをベースとした栄養補助食品を、汚染の大きい子供たちに配給することを拒み、子供たちを、必須臓器への障害が改善不可能となる限界値以上の状態に放置したのである。 26年前に始まったこのような話の首謀者たちは誰なのか? 彼らの目的はなんなのか? 正確には何を意味するのか? チェルノブイリの惨事の影響についてのソビエト政府の無策と虚言を前にして、事故の初期段階で、異議申し立てをし、燃えている原発から100キロ離れたところへ住民を避難させるよう主張した物理学者ワシリー・ネステレンコ教授は、科学アカデミー会員で、ベラルーシ科学アカデミーの原子力研究所所長であったが、1987年7月に、パニックへの不安の種をまく人物としてその職を罷免され、1990年に国のこの組織を離職し、汚染された子供たちを救済するために、ベルラド独立放射能研究所を立ち上げた。ベラルーシの最も汚染された村々に、370の放射能測定地区センターを設置し、そこで、放射能防護に関わる医者、教師、看護婦を養成し、汚染を減少させるために食物をどのように扱えばよいのかを家族に教えた。これらの地区センターは、「民主化」の短期間、まず政府から支援を受けたが、今日では、原子力ロビーが状況を掌握すると、閉鎖されている。 1996年、ネステレンコは、ウクライナ、ロシア政府の厚生省がセシウム137を吸着剤(訳注:排泄促進剤)として奨励したりんごペクチンをベースとした栄養補助食品を適用し、成功した。一ヶ月の治療で、子どもの臓器の放射性核種の量は60-70%減少させることができるのだ[4]。 1994年、ネステレンコは、ゴメリ医科大学の学長、解剖病理学者で医者のユーリー・バンダジェフスキーと知り合う。彼は1991年から汚染地域に暮らす住民の新しい疾患の病因学の研究をしていた。その妻、小児科医で心臓病医のガリーナとともに、バンダジェフシキーは、心臓の機能的、形態的変質の 重篤度 と頻度が、臓器のなかに摂取された放射性セシウムの量に比例して増大することを発見した。「セシウムによる心臓筋疾患」、つまり幼児、青年、成人における心筋の退行性障害を伴う心臓病である。突然死は、あらゆる年齢のひと、子どもにさえもに引き起こされる。体重、1キロあたり50ベクレル以上だと、不可逆的な損傷が必須臓器に現れる。 1996年から、ベルラド研究所は、ゴメリ医科大学と共同で作業を始めた。ネステレンコは、村々を行き通い、西洋のNGOから寄贈されたホール・ボディ・カウンターを使ってセシウム137の体内組織への汚染度測定に集中した。二つの研究組織は、セシウム137による汚染の少ない食事療法をすると、子どもと実験用の動物によって、必須臓器に対する不可逆的な損傷を避けることができることを明らかにした。科学のための全く新しい研究の道が開けたのである。 1999年4月,この二人の科学者は,ベラルーシ議会の招きで,線量記録台帳を確認し,またチェルノブイリ事故の影響の医学的研究という名目で厚生省放射線医学研究所がどのように国家予算を使用しているのか監査する委員会のメンバーとなった.二人の結論は,厚生省と懇意の委員会メンバーたちの気に入らなかった.このメンバーたちは,別の報告書に署名し,住民の健康に関して責任をもつベラルーシ安全保障理事会へ送った.この理事会は,線量記録台帳を厚生省に撤回させ,ネステレンコとバンダジェフスキーの「結論を受けて緊急に」資料を再検討するよう,同省に求めたバンダジェフスキーはルカシェンコ大統領に報告書を送り,そのなかで厚生省放射線医学研究所の作業を厳しく批判し,1998年は170億ルーブルのうち,わずか10億ルーブルしか有益に使われなかったと述べている.1999年7月13日,ルカシェンコがテロリズムに対して公布した法令により,バンダジェフスキーは逮捕された.証拠がないにもかかわらず,買収の疑いで,ベラルーシ最高裁判所軍事法廷で8年の刑の宣告を受けた. エトス・プロジェクト その間、1996年に、<エトス>(1901年の非営利アソシアシオン法によるNGO)と呼ばれるフランスの研究者グループは、ネステレンコ教授によって管理されているオルマニー村の放射線測定センターを頼りにやって来た。ここでは彼らの測定データを収集することと、チェルノブイリでの汚染地域の放射線防護を教育するためであった。<エトス>は、CEPN(原子力分野における防護評価の研究センター)の発露の一つであり、EDF(フランス電力公社)、CEA(フランス原子力庁)によって、1996年に創設された。この組織は仏原子力ロビーを積極的に代表しているのである!  エートスの目標の一つは,欧州連合のために,原発事故と半減期の長い放射性核種によって汚染された地域の管理に関する本を,「放射線のクオリティ(質)と社会的信頼を継続的に管理するための対策」を明示したうえで、書くことだった[5] 。 1996年から1998年の3年間,エートスは,オルマニーの地区測定センターの測定データを集積し,ネステレンコによって養成された人材を使い,設備投資されたセンターを使って食品の放射能測定を行ったのである.そのことによって過剰な作業を強いられた女性技師に何の残業手当も支払わずにである.フランス人研究者たちにとっては,ネステレンコがベラルーシ当局によってオルマニー村から,そしてストリン地区の他の四つの村から追い出されるその日までは,資金を心配することもない、実り多い共同作業であった.  実際、<エトス>連合体は、V・ネステレンコから学び、今は、彼からその地位を奪うために、彼が所有していたデータを収奪したのである。まさに盗作であるが、根本的な欠陥を持っている。すなわち、仏原子力ロビーによって計画された<エトス>の任務の規約には、健康問題の根幹を排除するという越えがたい限界が定められていた。<エトス>は住民の健康問題に関する権限を持っていなかったのである[6]。では、この根本的な権限もなしに、チェルノブイリに何をしに来たのか?  <エトス>に協力していた社会学者の友人が、<エトス>プロジェクトを指揮していたジャッック・ロシャールは、原子力庁から来た人物であり、彼の任務は、驚くべきやり方、つまり「我々は地歩を確保しなければならない」というものだと私に語った時、私は事態を理解し始めた。 ネステレンコによる養成が終わると、<エトス>は、チェルノブイリ地域における放射能防護の科学的参照項として、ヨーロッパで紹介され始め、国際プロジェクト<CORE>(コア)の調整者となった。<CORE>は「チェルノブイリ事故によって汚染地となった地域での生活条件の再建のためのコーペレーション」の略称で、創設会員は、ベラルーシ政府のチェルノブイリ委員会、国連開発計画、仏・独大使館、欧州委員会、スイスの開発協力局、ユネスコ、世界銀行、そしてベラルーシの4つの地区である。 2003年6月18日、NPO<チェルノブイリ/ベラルーシの子供たち>の名で、私は、この計画についての詳細なる批判を書き、国会議員、ヨーロッパの政治、行政当局に送付した。この手紙に同封されているノートの中で、私は以下のように、明確に書いた。 「この計画は、1986年以前では20%の子どもだけが病気だったのに、チェルノブイリの惨事によって、80%以上の子供たちが病気になっているというこの地方の事実を、考慮に入れていません[7]。コア計画の覚書は、5年の活動後に、その有効性を評価する予定をしています。私たちの批判は、このプロジェクトの起源から、考慮されてしかるべきだというものです。なぜなら、汚染された大地での健康の惨事は、悪化しているのであり、重大な伝染病のように増大しているからです。国際社会から17年間も放置された汚染された住民たちは、適切な医学的治療が予定されていないプロジェクトで、これ以上、5年間も待つことはできません」と。 返事はなかった。<エトス=コア>作戦の役割は、08年2月20日付けの『ルモンド』紙の記事が「フランスは、フランス領土内にチェルノブイリ級の事故の影響に備える準備をしている」と、伝え、そしてASN原子力安全局は、<エトス>の調整役であったムタディス・コンサルタント社に委ねたチェルノブイリの事故後の管理の経験に戻って再検討する研究を始めて以来、明確になっている。 このアプローチの諸目標は、「フランスと欧州連合の社会的、経済的、政治的コンテキストにおいて、事故後の管理の予防体制の展望を検討する上で、この経験に戻って検討することの適確さを評価する」ことであった。 「ベラルーシのコンテキストにおける事故後の管理の経験へもどって行なわれた再検討」と題された2007年3月19日付けの総括的報告は、すべて<CORE>の提唱者である三人、ムタディス・コンサルタント社のジル・エリアール=デュブルイユ、CEPNのジャック・ロシャール、パリーグリニョン国立農業研究所のアンリ・オラニョンによって署名された。 こうして、原子力ロビーと核開発を続ける諸国家によって、政治的にも経済的にも援助され、表面的には、チェルノブイリの惨事で生み出された諸問題を援助するために奔走するように見える<エトス>は、実際には、ネステレンコやバンダジェフスキーのような独立科学者たちが幾多の障害を乗り越えて明らかにした悲惨な健康被害の実態を認知することを妨害したのだ。原子力ロビーにとって肝心なことは、惨事が起こった場合、「社会的信頼」を定着させるために、放射能のある質(訳注:健康被害の相関関係が明瞭でない線量範囲)を定義することにあった。汚染されたモルモット=子供たちから得られた科学情報は、西洋の観察者たちにとっては、変わらずにそのままであった。というのも、放射性核種によって体内に負荷された放射能は、<CORE>が放射能吸着剤の投与をする経済支援を拒否したために、変化していなかったからである。ヨーロッパの裕福なある国で、原子力苛酷事故が起こったとき、その後の管理のために有益なデータの収集を最終目的とする、見かけはそれぞれ<独立した組織>からなるひとつの国際的パズルが障害になっているのである。1990年にウクライナの緑の運動の指導者で、ソ連の<民主化された>ソビエト最高議会に議員として選出された医師で作家のユーリー・シチェルバクに聞いたのだが、私に「あるフランス教授が、この事故で最も大切なことは何だと考えるかと聞かれて、『これは面白い、私の研究室で、かような実験に関わることができるとは思っても見なかった。今、私はそれを観察出来る』というのですよ」と語った。「あなたは、こうした人たちの臆面もない態度と姿勢を、想像出来ますか」といって、彼は話を終えた。 彼を憤慨させた臆面のないやりかたが、事実、ヨーロッパ諸国家のレベルで計画された犯罪を先取りしていたということを、シチェルバクが想像できたかどうかは知るよしもない。つまり、彼らのやったことは、ペクチンのように効果があり、人体に害がない自然製品による予防薬を、チェルノブイリの子供たちに与えるのを拒否し、私たちのところで起きるかも知れない惨事の影響をどのように管理するべきかを研究していたのである。それは許しがたいことである。 私はジャック・ロシャールに書き送った。「チェルノブイリ汚染地域の放射線防護は、一人一人の子どもの身体組織や彼らが摂取する食べ物に適応した科学なしには、不可能です。ベラルーシ厚生省は、一般的に誤った統計データを発表し続けるために、このようなことを進めたくなかったのです。 厚生省がネステレンコ教授の仕事に反対するのは、そのためです.ホール・ボディ・カウンターを使って具体的な測定をすれば,汚染の本当の線量が分かるからです。 それぞれの子どもに適した予防法を生み出し,体内に取り込まれた放射性核種の量と,解剖病理学者バンダジェフスキーによって研究された幾多の病気との相関関係を確立するために,こうした測定は不可欠なのです. それはまた同時に、まだ始まったばかりのチェルノブイリの惨事の実際の規模を明らかにするのです。科学的方法論に関与せず、教育や社会学的な基盤だけに関わることは、「無知と不確定」の中に、事態をそのまま放置する隠れ蓑の口実となりかねません[8]。ベラルーシ人たちが自分の運命に自分で責任を持つことをあなたが期待するのは、もっともなことです。ベラルーシ人たち、それはまずネステレンコのような科学者たちです。彼らの知識が正当な放射能防護の政策を課すことになるのか、一切の放射能防護がないままでいくのどちらかです。これらの科学者たちなしに、罠にはまった貧しい農民たちは、手段も知識も持たず、彼ら自身の運命に立ち向かう力を獲得することは一切ないでしょう。ネステレンコの370の地区センターは再建されるすべきです」と。 ウラディミール・チェルトコフ ジャーナリスト。NPO<チェルノブイリ/ベラルーシの子供たち>の共同創設者で会員。著書「チェルノブイリの犯罪 —核の強制収容所」アクト・シュッド社、2006年刊。チェルノブイリに関するドキュメンタリー映画の監督、とりわけ「サクリフィス」(2003年)、「核論争」(日本語題名:真実はどこに?)(2004年) (仮訳:コリン・コバヤシ)

0 件のコメント: