2013年4月10日水曜日

砂川事件と伊達判決 - 暴露された田中耕太郞の対米隷従工作. http://critic5.exblog.jp/20265069/ 昨夜(4/8)のNHKのニュースで砂川事件に関する報道があり、当時の最高裁長官(田中耕太郞)が、上告審判決の見通しを駐日米公使と密談して伝達していた事実が暴露された。米軍駐留を違憲とした一審判決を破棄し、しかもそれを少数意見のない全員一致の判決で出すことを、米国側の要請に応じて最高裁長官が応諾していた。これは、当時の駐日米大使がワシントンの国務長官に送った公電から明らかにされたもので、元山梨学院大教授の布川玲子とジャーナリストの末浪靖司が米国立公文書館から入手した。きわめて重大な問題だ。司法権の独立を揺るがす由々しき問題だという批判が、水島朝穂などから上がっているが、司法権の独立以前に、日本国の主権の侵害であり、米国が最高裁判決を、しかも憲法判断を指図している。砂川事件は、憲法を学ぶときは必ず登場する事項で、高校の教科書にも出ていたし、特に大学の法学部に入った学生は、講義でこの裁判の過程を詳しく追いかけ、憲法9条と統治行為論を学んでいた。われわれの頃は、大学1年時に「基礎法学」の演習が必修であり、有斐閣の別冊ジュリストをテキストにして、憲法に関わる重大な戦後の事件と判例を学ばされた。だから、砂川事件と9条の問題とか、朝日訴訟と25条の問題とか、「チャタレー夫人の恋人」の表現の自由と公共の福祉の問題(21条)とか、ほとんど暗記するレベルまで叩き込まれて、専門用語を含む憲法論議を学生同士が日常会話で行うのが普通の風景だった。 われわれは憲法判例を学びながら、まさに概念としての戦後日本政治史を学んだのである。それは社会科学の基礎知識だった。久米宏のニュースステーションが始まったとき、小林一喜が何かの解説で、9条と自衛隊をめぐる判例史の要点を一言一句間違えず、何もメモを見ることなく、法学部の教官が講義するごとく、立て板に水で見事に紹介した場面があった。小林一喜はそれを当然の表情で、報道する者の常識と必須の職務としてやっていた。それをテレビで見ながら、「これぞ法学部だ」と私は小躍りし、さすがに朝日の記者は大したものだと感心した記憶がある。小林一喜は優秀な職業ジャーナリストだった。最近、老人の憂鬱でつくづく感じ、そして怪しむのは、若い人たちが、高校の政経の授業や大学の憲法の講義で、こうした<常識>を学んでないのではないかという疑念である。マスコミに登場する論者も、売名と売文に勤しんでいる卑しい社会学の小僧も、否、もっと年上の、売れっ子の社会学者や現代思想系の連中も、どうやら憲法判例の戦後政治史の知識がない。頭に入っていない。砂川事件も知らず、関心もないだろう。そういう人間が、政治を解説するだの分析するなど、およそ考えられない暴挙だし、教壇に立って学生に何を教えるのだろうかと訝しむ。日本の文系の高等教育、中等教育はどうなってしまったのか。砂川事件とその憲法判例は、戦後日本という身体の大きな背骨の一つだ。 この砂川事件の裁判で、在日米軍は憲法違反だと断定した一審判決に注目しよう。判決を出した東京地裁の裁判官の名前をとって伊達判決と呼ばれる。われわれの若い時代は<常識>だった。だが、昨夜(4/8)、NHK-NW9では比較的長い分量の報道が編集されたにもかかわらず、伊達判決という言葉はナレーション原稿になく、統治行為論という言葉も紹介されることはなかった。伊達判決と統治行為論の語なしに、砂川事件とその裁判をどう説明するのだろう。だが、そういうアクロバティックで狡猾なことを、社会科学的に奇形としか言いようがない情報操作を、現在のマスコミは憚ることなくするのであり、社会の右傾化とアカデミーの脱構築化がそのいかがわしい言論行為を正当化している。戦後民主主義否定の一般風潮とイデオロギーがあり、そうした支配的思想の下で、伊達判決の語は表の言論空間から消される。伊達判決の全文をネットで探したら、PDFで原典をスキャンしたものと、テキストをそのまま写したものがあった。原文はかなり長い。手元に、全国民主主義教育研究会が1972年に出した「学習資料 政治・経済」があり、そこに伊達判決の重要な部分の要約があるので、それを転載することにしよう。これは高校政経の副読本教材として編まれたものだが、全民研の編集と言い、1972年の年代と言い、言わば玉手箱を開けるような感覚は否めない。ちなみに、全民研はサイトを設えていて現在も活動を続けている。当時の、創設時の初代会長は古在由重だった。 「(1)憲法9条は、自衛権を否定するものではないが、侵略的戦争は勿論のこと、自衛のための戦力を用いる戦争及び自衛のための戦力の保持をも許さないのである。(2)9条の解釈は、憲法の理念を十分考慮してなされるべきであり、単に文言の形式的、概念的把握に止まってはならないだけでなく、米軍の駐留は占領軍が撤収した後の軍備なき真空状態からわが国を守るため、自衛上やむを得ないとする政策論によって左右されてはならない。(3)駐留米軍の軍事行動により、わが国が直接関係ない武力紛争に巻き込まれる可能性もあるので、米軍の駐留を許した政府の行為は、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意した』日本国憲法に反する。(4)米軍の駐留は政府と合衆国政府の合意によってなされたものであり、日本政府の行為によるものであるとも言える。指揮権の有無、米軍の出動義務の有無にかかわらず、9条2項前段によって禁止されている『戦力』の保持に該当し、憲法上その存在は許されない。(5)米軍駐留が憲法違反である以上、米軍基地内を特に保護する必要はなく、国民に対して、軽犯罪法の規定よりも特に重い刑罰規定がある刑事特別法第2条の規定は、憲法第31条違反であり、無効である」(P.94)。一読して、勇気ある非常に画期的な判決であり、まさに憲法に即した正論の司法判断だと言える。こうした判決を54年前に地裁の裁判官が出していた事実にあらためて驚かされ、当時の司法が今のように腐ってなかったことに感動を覚える。 砂川事件が起きたのは1957年の7月で、立川飛行場内の民有地で測量を始めた都当局に対して、米軍基地の拡張に反対する市民と学生が抗議運動の中で飛行場内に立ち入り、安保条約に伴う行政協定である刑事特別法違反の容疑で7人が逮捕起訴された。それから2年後の1959年4月、一審の東京地裁で上の伊達判決が出て、全員無罪が言い渡される。検察側は異例の飛躍上告の挙に出、同じ1959年12月に原判決破棄差し戻しの最高裁判決が出た。信じられない最高裁のスピード判決だ。今回、明らかになった公電資料では、12月に最高裁判決を出す前、7月の時点で米国首席公使のハワードと最高裁長官の田中耕太郞が密会、ハワードの示唆で、「外国軍隊は9条の言う『戦力』に該当せず、在日米軍は9条の範囲内で合憲」とする憲法判断を出す結論で固めていた。田中耕太郞はその後の4か月間、判事15人の全員一致にするべく政治工作していたということになる。判決後に米大使が国務長官に宛てた公電では、「全員一致の最高裁判決は、田中裁判長の手腕と政治力に負うところがすこぶる大きい」と言っている。この最高裁判決で田中耕太郞は、単に在日米軍を合憲化しただけでなく、日米安保に関する問題を司法判断の外に置き、違憲立法審査権の適用から除外し、アンタッチャブルにする先例を示した。いわゆる統治行為論である。「学習資料 政治・経済」に最高裁判決の主張の要旨がこう書かれている。 「安保条約は高度の政治性を持つものであり、違憲か否かの純司法的機能を使命とする裁判所の審査には、原則として馴染まない性質のものである。したがって、一見きわめて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものである。それは、内閣およびこれに対して承認権を有する国民の政治的判断に委ねられるべきものである」(P.94)。この後、恵庭事件(1962年)、長沼ナイキ訴訟(1969年)と続く自衛隊と憲法をめぐる裁判において、裁判所は統治行為論を根拠に憲法判断を示さず、現在まで至っている。基礎法学の演習は毎週月曜の午前だったが、その小教室でわれわれ1年生を前に、教官が最高裁の反動性に対して猛烈に怒っていたのを思い出す。今、おそらく全国の大学で、そういう憲法教育をする法学部の教官は一人もいないだろう。いずれにせよ、あの当時は、砂川事件、恵庭事件、長沼ナイキ訴訟と続く一連の憲法9条の裁判過程と判例の法理構造について、学生はしっかり頭に入れ、試験に出れば答案にスラスラと書けなくてはいけなかった。小林一喜のように。砂川事件と伊達判決を政治問題として現時点で振り返ったとき、思うのは、当時が講和問題と安保闘争の間の時代で、日本の戦後の運命がまさしく分岐点にあったということだ。米大使は最高裁判決を讃え、同じ公電(1959年12月)の中で、「日本を世界の自由陣営に組み込む金字塔」だと手放しで喜んでいる。60年安保の承認の前であり、日本が伊達判決的な方向へ、全面講和の道に進む可能性も残されていた。 判決文を書いた裁判官の一人である松本一郎は、「私は、日本は日本であるべきだ(と思って判決した)」とニュース映像の中で言っている。日本は日本であるべきだというのは、日本は米国の占領下になく、独立した主権国家であり、守るべき憲法を持っているという意味だろう。今後、砂川事件は、憲法9条の問題としてだけでなく、新たに司法の独立の問題として光が照射され、論議され続けることになるに違いない。最後に、ネットに上がった砂川事件の写真を見ていると、砂川事件が、米軍基地の拡張工事に対する反対運動である砂川闘争の過程で起きた事件と裁判であり、壮絶な住民の抵抗運動が起きていたことが分かる。そして、基地に離発着する米軍輸送機のすぐ傍や真下で、スレスレのところで、近辺の住民たちが抗議活動していた様子が映っている。気づくのだ。50年前は、東京の立川も沖縄と同じだったということを。騒音も酷かっただろうし、墜落の危険も大きかっただろう。何より、いつ米ソの冷戦が熱戦になり、日本が戦争に巻き込まれるかもしれない恐怖があった。写真は、この当時、東京の立川(砂川町)が普天間基地と宜野湾市であったことを教えている。同じ現実と闘争は沖縄で続き、われわれはそれをテレビのニュースで見ている。そして、嘗て自分たちが今の沖縄の人々と同じだったということを忘れ、米軍基地に反対した過去を忘れ、米軍基地撤去を求めて運動する沖縄の人々を、左翼だの反日だのと言って罵っている。 今日(4/9)の朝日新聞は、これほど重大な事実の暴露があったのに、砂川事件に関する暴露の記事が小さい。それを押しのけて、サッチャーを賛美する記事を3面にわたって大々的に特集している。

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