2013年5月1日水曜日
被ばくをめぐる隠蔽と責任回避の連鎖.
http://onigumo.sapolog.com/e392999.html
先日、「ふくしま集団疎開裁判」の高裁決定が出た。詳しくは以下を参照していただきたいのだが、低線量被曝の影響について認めながらも、集団疎開を認めないという理解しがたい判断だった。
司法も健康被害を懸念-「ふくしま集団疎開裁判」、高裁決定出る-
そもそもなぜ「ふくしま集団疎開裁判」を起こさねばならなかったのだろう。それは、国が福島第一原発から大量の放射性物質が放出されたことを知っていながら、速やかに国民にそのことを知らせず、また適切な避難をさせなかったことに起因している。もし、国が高濃度汚染地域の人たちの避難を義務づけ、また年1ミリシーベルト以上になる地域の住民に避難の権利を認めて移住や新生活の補償をしていたなら、おそらく裁判を起こすこともなかっただろう。避難したくてもできない弱者がたくさんいるのであり、その人たちの補償と支援こそ国の責任だ。
たとえば福島市の市街地では、実際には飲食も禁じられている放射線管理区域の基準(3カ月1.3ミリシーベルト)を超える毎時0.75マイクロシーベルトの地域は半分以上もあり、年8ミリシーベルト(毎時1マイクロシーベルト)以上の場所が市街地の28%もあるという。
福島市街地の半分は居住不適(ヤフーニュース)
チェルノブイリの原発事故でも、事故直後ではないものの、年間被ばく量が1ミリシーベルト以上の地域の住民は、移住の権利が認められた。
ところが除染をして空間線量を年20ミリシーベルト以下に下げれば居住可として、避難した住民すら汚染地に戻そうというのが日本の方針だ。
「脱ひばくを実現する移住法」制定への提言・松井英介(明日うらしま)
チェルノブイリでは大変な健康被害が生じ、それは今も続いている。それなのに、日本政府は放射能管理区域よりも線量の高いところに人を住まわせて被ばくさせようとしている。もちろんチェルノブイリと福島では同じではないが、だからといって健康被害が生じないなどという保障はなにもない。
福島第一原発が次々と爆発したとき、チェルノブイリの被害を知っている一部の人はいち早く避難をした。しかし、多くの日本人はマスコミに登場した「格納容器は健全です」という御用学者の言葉を信じてしまった。私も、原発が爆発した時、放射性物質が放出されたことはもちろん分かったが、原子炉が大破したチェルノブイリのような大量放出にはならないだろうと何となく思ってしまった。
しかし、米国はすぐに福一から80キロ圏内の米国人を避難させた。私は2011年3月下旬から4月上旬にかけて東京に行ったが、東京には外国人の姿がほとんど見られなかった。米国にはSPEEDIの情報が伝えられ、首都圏すら危険であることが分かっていたのである。
チェルノブイリの前例がありながら日本政府は「避難の権利」を認めるという選択をせず、除染で対応するという方針を選んだ。「避難の権利」を認めてしまったなら、低線量被ばくによる健康被害を認めなければならない。これを認めたら、あとで裁判などになったときに不利になる。国の判断には、責任回避が先にあるのだろう。さらに、人口密度の高い日本で「年1ミリシーベルト」を基準に避難の権利を認めたなら、移住に伴う補償費用が莫大になる。
嘘をついたらその嘘を隠すためにさらに嘘をつくことになる。初めの判断を誤ったなら、あるいは初めに責任回避を優先したら、そのためにずっと嘘をつきつづけなければならない。嘘や隠蔽の連鎖だ。今の日本はそんな状況にあるように思えてならない。
裁判所も福島では健康被害が懸念されると認識している。それでも子どもたちの集団疎開を認めようとしない。裁判所も国の決定に逆らえないということなのだろうか。
私は、被ばくを回避するためには避難するのがベストだと思っている。とりわけ子どもたちは少しでも安全なところで生活してほしいと願っている。ただし、このブログでも福島の人たちに避難を呼びかけることはしていない。チェルノブイリでも高濃度汚染地域に住み続ける高齢者がいる。彼らにとっては避難することこそ苦痛なのだろうし、彼らの選択を批判することはできない。
現状では、避難するか否かは最終的には個人個人の判断に任せるしかない。しかし避難できる人の大半はすでに避難しているのだと思う。その一方で、避難したいのにさまざまな理由で避難できない人、またリスクは小さいと判断して汚染地域に住むと決意した人たちがいると思うと、何と言っていいのか分からない複雑な心境になる。こんな風に人々を引き裂いてしまうのが原発事故という現実なのだ。
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